石田三成の親友と言えば、大谷吉継が有名です。
関ケ原の戦いでも石田三成側の西軍につきました。
大谷吉継は病気がちでいつも顔を隠しているイメージも多いのではないでしょうか。
でも、大谷吉継は実際どんな人で、何をしてきた人なのかってよくわかない人も多いと思います。
そこで大谷吉継がどんな人だったのか、エピソードを紹介していきます。
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目次
大谷吉継ってどんな人なの?
大谷吉継のお母さんは…
1565年(1559年という説もあり)に近江(現在の滋賀県)で生まれます。
大谷吉継の母親は豊臣秀吉の正室・おね(北政所)の取次役であった“東殿”でした。
東殿はおねの母の朝日殿の親族であったとも言われており、秀吉のくつろぐ奥御殿の次の間に東殿が控えており、かなりの政治力を有していたようです。
このこともあり、大谷吉継は秀吉の小姓として働き始めます。
石田三成と出会い。また戦や策力など才能を発揮。
この頃には石田三成も秀吉のもとで働いていたので、二人は同期のような間柄ではなかったかと思います。
信長の死後、柴田勝家との対立が決定的となった際には当時長浜城主だった柴田勝豊を調略(はかりごとをめぐらすこと。この場合は説得したことになる)。
合戦においても石田三成らとともに“七本槍”に匹敵する『三振りの太刀』と秀吉から称賛される手柄を立てました。
1583年の紀州攻めでは最後まで抵抗する杉本荒法師と戦い、槍で一突きにして討ち取り武功をあげます。
北条攻めの際、家康の出方が気になった秀吉は吉継を派遣して協力を取り付けることに成功。
大谷吉継は水軍を編成
そして小田原征伐(北条氏を征伐した戦い)後、敦賀2万石が5万石に加増され吉継は水軍を編制します。
敦賀(現在の福井県の辺り)は海上交通の重要な場所。
重要拠点を任されるぐらい秀吉に信頼されていたようです。
この頃に娘を真田信繁(幸村)に嫁がせていますが、これは真田家を豊臣に引き込むために秀吉が考えたことだったとか。
大谷吉継の病気は…
ハンセン病に関しては1586年頃から患っていたという話もあります。
なので、千人斬りという辻斬り事件が起きた際には、吉継が病気治癒の為に血を求めて千人斬りを行っている、という噂が立っていたというお話があるそうです。
まだ大谷吉継が20~30代の頃。
まだまだこれからという時期に病気にかかり吉継は悔しかったのかもしれません。
1593年頃からは大谷吉継はあまり公の場に姿を見せなくなったそうです。
秀吉なき後は…
秀吉亡き後は、実は家康と仲良くしていたようです。
家康が上杉景勝に謀反の疑いをかけたときに景勝に大阪に来るように送った書状に名前を書いていたり、上杉攻め決定の際には賛成し、家康を『天下の主になる人物だ』と高く評価しています。
家康も上杉攻めが終わったら12万石加増すると約束したほど吉継を評価していました。
石田三成と会って…
そんな吉継ですが、上杉攻めの家康軍に合流するべく敦賀を出立した際に三成の居城である佐和山城に立ち寄ります。
三成に上杉討伐に加わらないかと話を持ち掛けるために寄ったのでしょうが、そこで三成から逆に家康を討つことを告げられました。
吉継は三成を勝ち目はないと説得するも熱意に負け、三成との友情を選び味方になります。
敦賀に戻ると、家康に味方している加賀(現在の石川県辺り)の前田利長に対抗するために周辺の大名を調略。
周辺の大名の一人である丹羽長重の小松城に攻めてきた際は、吉継のところの水軍を出すという偽情報を流す等をして動揺させて撤退させます。
再度攻めてきた利長に丹羽長重は降伏しましたが、そうすることで利長を北陸に釘付けにして関ヶ原に行かせませんでした。
そして関ヶ原において、裏切った西軍の武将達に壊滅するまで吉継も、吉継の兵達も最後まで戦い、散っていきました。
享年42才。
大谷吉継のエピソードは?かっこいい?
大谷吉継と石田三成との仲は?
石田三成とは同い年で同じ近江出身。
仕官当初から一緒に行動することが多く仲が良かったそうです。
武将同士の友情が珍しい時代だっために、二人とも男色家だったのではないかと噂されることもあったようですよ。
大谷吉継はキリスト教だった
1585年7月以降にキリスト教に改宗。
宣教師ガスパル・コエリョが秀吉を訪問した時には安威了佐(あいりょうさ)という人物とともにコエリョへ果物と干し柿を持参しています。
吉継が生まれる前のエピソード
吉継が生まれる前の事。
両親は子供ができないことに悩んでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると『神社の松の実を食べよ』という夢を見ます。
そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきた、という伝説があるそうです。
吉継の幼名もそれにちなんで慶松(桂松)というようですよ。
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関ヶ原の戦いは吉継のこんなエピソードもある
関ヶ原についてのお話です。
関ヶ原では病気の為に馬に乗るのも難しくなっており、輿(こし:人が乗って担ぐ乗り物)に乗って指揮をしていました。
また関ヶ原に残る吉継の墓は、吉継と激闘を繰り広げた藤堂高虎が建てたものとされているようです。
藤堂高虎は最後まで激闘をくり広げた吉継に敬意をもって弔い(とむらい)たかったようです。
そして、大谷吉継は自害する際に吉継は小早川秀秋の陣に向かって『3年の間に祟りをなさん』と言って切腹しました。
その2年後に秀秋は狂乱して死亡。
当時の人々は吉継の呪いだと噂したそうです。
もしこれが本当であれば人の念というのは怖いと改めて実感してしまいますね。
最後に
大谷吉継がどんな人だったかエピソードを紹介しました。
策略を練るなど知能派だけでなく戦で武功も上げる人物でもあったようです。
この記事で大谷吉継について少しでも知っていただけたら幸いです。
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