関ヶ原の戦いで西軍において中心人物だった『石田三成』。
性格が悪い、とか嫌われ者だったと伝わっています。
多くの人はそのように聞いてきたので、三成についてはあまりいい印象を持ってなかったりもします。
でも、意外な一面も多くあるんです。
そんな石田三成の性格や逸話を解説して、どんな人かお伝えしていきます。
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目次
石田三成の性格は?どんな人なの?
石田三成はお茶の出し方がいいと秀吉に
1560年に石田三成は生まれます。
幼名は『佐吉』。
けれど次男坊であった為に寺に小姓として預けられました。
そのお寺でで「お茶の出し方がいい。」と豊臣秀吉に気に入られ引き取られます。
計算がすごく得意で、税金を取るための『検地の改革』を手伝ったり、軍事の後方支援、内部補佐を行うなど秀吉の側近として活躍するようになっていきました。
石田三成の性格は?
三成は義理堅く、自分のことには無欲だったようです。
例えば、秀吉が高く評価し「三成にこの土地をあげたい。」と言った時もきっぱりと断ったり、自分がいいと思った家臣には自分の報酬をあげてしまい、「こやつが養ってくれているのです。」と言って周囲に呆れられたりしたそうです。
真面目ではあったけど…
けれど、そういった真面目な人間であった反面、横柄(おうへい)だったとか。
ある年の10月、毛利輝元から秀吉へ季節外れの桃が献上品として届きました。
しかし三成は、“見事な桃であるが、召し上がって何かあれば一大事。もしそうなれば毛利家にとっても一大事なので季節のものを献上してほしい”、と突き返しました。
このことを大半の人が秀吉の権勢を傘に着て横柄だと評したそうです。
ですが、中にはもっともだと言う人もいました。
確かに桃に当たって秀吉が倒れでもしたら一大事。
毛利家はただでは済みません。
そう考えたら“相手のこと思っての行動だった”のではないでしょうか。
とはいえ、盟友である大谷吉継も
- 『才知に長けているが勇気が足りない』
- 『三成は横柄で傲慢だと大名から百姓まで噂している。失礼だが、人望がない』
と言っていたとか。
大谷吉継とのエピソード
そんな大谷吉継とも三成の性格がよくわかるエピソードがあります。
お茶会で、秀吉の点てたお茶を家臣達で回し飲みをする事になりました。
その際、大谷吉継はらい病(ハンセン病)という病を患っていましたが、その病の症状で顔の膿がお茶に垂れてしまいました。
それを見た武将達は皆、飲むふりをするだけでお茶に口をつけません。
けれど石田三成だけは吉継の気持ちを察して、吉継が恥をかかない為にお茶を全て飲み干しました。
男気あふれるエピソードですよね。
石田三成が現代で悪い評判であることが多いのは…
石田三成がなにかをした、ということはありません。
三成が悪人とされたのは江戸時代からのようです。
江戸時代には晩年の秀吉の悪行がすべて三成のせいにされていました。
それは関ヶ原の戦いで敗者となったことが大きいのではないでしょうか。
そして真っ直ぐすぎる性格と秀吉の側近という立場への僻みや中傷から嫌われていたのかもしれません。
三成はこの時代では珍しく
実はこの時代では珍しく、側室も取らず奥さんは正室である皎月院(うた)のみだったそうですよ。
本来の性格は、堅物で生真面目で忠義に厚く曲がったことが嫌い、だったようです。
自分たちが聞いてきた三成とは全く違いますね。
石田三成の逸話やエピソードは?
次にその他の石田三成のエピソードも紹介していきたいと思います。
ほれ込んだ島左近に対して
官僚としては優秀だったが戦についてはいま一つだった三成の元に、『島左近』という武将の名が耳に入ります。
“強くて戦術にも長けた有能な人物”として有名でいろいろな武将からスカウトを受けていたがことごとく断っていたそうです。
そんな島左近に三成は熱烈アピール。
断られてもアピールを続け、持っている4万石の半分である2万石をあげたとか。
その熱意に打たれ島左近は士官するようになりました。
関ヶ原の戦いの西軍の総大将って?
関ヶ原の戦い後のエピソードもたくさんありました。
実は西軍の総大将は毛利であり、石田三成ではなかったです。
これに驚く人も多いかもしれません。
関ヶ原の戦いと言えば、石田三成VS徳川家康と思っている人も多いのではないでしょうか。
なんでも、大谷吉継に『おぬしは横柄だと思われているから、総大将は毛利にしておけ』と言われたそうです。
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最後まで忠義を貫く
合戦後、捕らえられた三成達は、ぼろぼろでみすぼらしかったそうです。
それを見た家康が“せめて最後まで武将として綺麗な着物を”と小袖を用意します。
『江戸の上様(家康)からだ』と聞いた三成は『上様と言えば(豊臣)秀頼公より他に居ない。いつから家康が上様になったのか』と断固拒否。
最後まで豊臣家に忠義を貫きました。
石田三成の最期にはこんなエピソードも
また、捕らえられてさらし者になっている三成のところにやってきた福島正則は、三成のことを嫌っていたために感情のまま罵声を浴びせます。
けれど、同じく三成を嫌っていた黒田長政はぼろぼろの三成を見て自分の陣羽織をかけてあげたそうです。
三成と長政の感動する逸話だと思います。
そして、三成は斬首前に『戦では負けることなど普通で恥ではない』と言い家康を感心させました。
斬首後、首はさらされますがその後、沢庵和尚ら僧二人が生前仲が良かった三成の遺骸を引き取り、手厚く葬ったそうです。
最後に
石田三成の性格や逸話を紹介しました。
堅物で生真面目だと確かに付き合いにくいかもしれませんが、信頼できる人間なのではなかったかと思います。
だからこそ秀吉が側に置いておいたのではないでしょうか。
石田三成について少しでも知っていただけのなら幸いです。
石田三成のエピソードはこちらにも載っているので、よければお読みくださいね。
関ヶ原の戦いを簡単に説明します!分かりやすくいろんなエピソードを紹介!
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