今から約400年以上前の1600年9月15日、天下分け目の戦い、『関ヶ原の合戦』が起きました。
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍とがぶつかったこの戦いは歴史に残り、後世の私たちへと伝わっています。
どういった経緯で起こったのか、関ヶ原の戦いの後はどうなっていったのか。
そんな関ヶ原の戦いの歴史を簡単にわかりやすく解説していきます。
スポンサーリンク
目次
関ヶ原の戦いはどんな流れでおきたの簡単に説明すると
まず、関ヶ原の戦いが何故起きたのか説明していきます。
秀吉が亡くなった後
1598年、天下統一を果たし日本を治めていた豊臣秀吉が亡くなります。
秀吉の死後、秀吉の息子秀頼が小さかったため、日本を運営するようになったのが、『豊臣五大老』と『豊臣五奉行』です。
『豊臣五大老』とは各地の有力な大名によって構成された『権力者の代表』で、
徳川家康を始め
- 徳川家康
- 前田利家
- 毛利輝元
- 宇喜田秀家
- 上杉景勝
という一度は耳にしたことのある大名で構成されていました。
対して『豊臣五奉行』は豊臣家の中で実際に政務を取り仕切っていた『豊臣家の上層部』。
ここに石田三成が入っていて
- 石田三成
- 増田長盛
- 浅野長政
- 前田玄以
- 長束正家
と言った武将で構成されています。
こちらは多くの人はあまり聞いたことのない武将ばかりかもしれません。
家康が禁止事項を独断で行うように
その二つの組織の中で、秀吉の死後、真っ先に行動し始めたのが後に江戸幕府を開いた徳川家康です。
家康は豊臣家の中で勝手に行う事を禁止されていた、各地の大名・家臣への“婚姻(結婚)の斡旋”や“知行(領地)の授与”等を五奉行に相談することなく独断で行うようになります。
もちろん五奉行は怒り、その筆頭であった石田三成が特に家康を非難するようになりました。
でも、石田三成も嫌われていた…
けれど、石田三成の方も元々嫌われ者だったようです。
秀吉の一番の側近で様々な報告・命令伝達の役目を持っていた三成は、失敗や失態等を情けや釈明を無視しありのままに報告、それに対する処罰を告げる仕事をしていました。
そのために望まぬ報告をされ処罰を受けた人が大勢いたのです。
しかも、今で言えば官僚のような立場のため本人が合戦をして傷つくこともないので、実際に戦場で戦っている『武断派』からも嫌われていました。
豊臣家内部では石田三成率いる官僚VS武断派で対立が発生していたとか。
家康の独断行動は非難されるべきものではありましたが、それ(政略結婚で家康との関係が近くなる、領地の授与など)を受けた武将にとってはありがたいもの。
しかも、家康を非難をする三成サイドは嫌われていたために『家康派』と『三成派』に分かれていくこととなります。
ですが、すぐには争いごとにはなりませんでした。
それは仲裁役として『前田利家』がいたからです。
五大老で家康に次ぐナンバー2であり多くの武将達から慕われていた彼はトラブルが起こらないよう配慮。
また、家康の行動については反発しており、五奉行に近い立場として武断派の武将達も抑える役目を果たしていました。
しかし、前田利家も年をとっています。
1599年3月に前田利家が亡くなるとパワーバランスが崩れたのか、武断派による『三成暗殺事件』が起こります。
三成はこれを事前に察知し姿をくらましたため未遂に終わりました。
この時、三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだなどとも言われていますが、いずれにせよライバルである徳川家康が仲裁に入り、事なきを得ます。
なぜライバルであるのに仲裁したかと言うと、徳川の力が強くなっているとは言え、この時代はパワーバランスが崩れている混乱期ですから、家康も仲裁することで政治的地位をより確保するなどいろいろ思惑があったと思われます。
けれど事件が起こったことで三成は謹慎処分となり一時的に失脚。
その隙に家康は大阪城に入り政務を指揮するようになりました。
こうした経緯で更に『官僚派』と『武断派』は分裂、修復不可能となってしまいます。
そして石田三成は盟友である大谷吉継を呼んで話し合い、五奉行らに相談し挙兵、関ヶ原の戦いが起こったのでした。
本当は三成側が勝つ布陣だった???
東軍7万、西軍10万と数でも上回り更に石田勢が陣を構えた後に家康勢は到着したため不利な配置となってしまいます。
関ヶ原は四方を山に囲まれた窪地であり、その中に入った東軍を山の上に布陣した西軍が完全包囲する形となったからです。
多くの歴史家が後に冷静に見ると西軍(光成側)が勝つ布陣であったと言われています。
けれど、そうはなりません。
東軍の黒田長政らは事前に西軍の小早川秀秋らに合戦が始まれば東軍に寝返るように合戦が始まるだいぶ前から“調略(政治的工作)”をしていました。
しかし、秀秋は寝返ろうか決めかねて参加せずに見守っていました。
それにしびれを切らした家康が秀秋の陣めがけて大砲を撃ちます。
『家康が怒っている!!』と思った秀秋は西軍を裏切り、隣の大谷吉継らの陣へ突撃。
大谷吉継はこのような事態になることは薄々わかっていたようなのですが、小早川秀秋を抑える位置にいた武将たちまで次々と東軍に寝返り、孤軍奮闘空しく大谷吉継は戦死。
武将たちの裏切りにより西軍は総崩れとなり、徳川家康率いる東軍の大勝利となったのでした。
家康の戦略勝ち、ということだったんですね!
関ヶ原の戦いの各エピソードも分かりやすく解説!
関ヶ原の戦いの後は?
関ヶ原の戦いの後、石田三成は責任を問われて処刑。
一方で敵のいなくなった家康はこの3年後に江戸幕府を開きます。
裏切った武将の多くは東軍についたということで待遇が良かった、などということはなく寝返ったことを認められず領地を減らされたり、没収されてしまったりとあまり良くなかったようです。
西軍についていた武将たちは処刑されたり、同じく領地を没収されています。
しかし、合戦後の態度によってはそれから逃れることできたようです。
例えば、上杉家は合戦後直ちに謝罪し徳川家との関係の修復に努め、領地は大幅に縮小されましたが大名家として存続することができています。
東軍か西軍、どちらについているかでその後の人生の明暗が分かれていったのですね・・・。
裏切った小早川は?
裏切った小早川秀秋についてですが、その後家康から多くの領地が与えられ出世します。
ですが関ヶ原での裏切りや醜態は世間の噂となり、誹謗中傷の的となってしまいます。
小早川秀秋は、そんな誹謗中傷と、裏切ったという呵責(かしゃく:責め苦しむこと)からかアルコール依存症に陥りわずか2年後、21歳という若さで亡くなりました。
スポンサーリンク
もともと勝てる戦ではなかった…
元々、諸大名から見て、人気・実力ともに光成より家康のほうが上回っていました。
関東地方のほとんどを領地にしていた家康に対して、石田三成は滋賀県の一部のみ。
しかも武断派からは嫌われていたので、たくさんの戦を経験している『福島正則』や『加藤清正』は東軍へ。
合戦の際も西軍内部では傍観していたり、すでに徳川と内通していたりと分裂が生じていたようです。
毛利家もその一つ。
西軍についていながら、一族である吉川広家が東軍と内通しており、合戦で突如反逆した広家に対し、大将であった毛利秀元は同士討ちを避けるために出陣要請に対して苦し紛れに『弁当食べているからダメ』と答えたそうですよ。
すごい言い訳ですよね・・・。
関ヶ原の戦いの日数は?
関ヶ原の戦い、実は半日で済んでいます。
わずか6時間ほど。これには多くの武将も驚いたとか。
あの有名な関ヶ原の戦いがわずか半日。
それだけ西軍の内部が分裂していた結果なのかもしれません。
最後に
関ケ原の戦いを解説してきました。
こうして豊臣家は縮小、一大名となり徳川家康は天下を獲ることができました。
けれどそれを拒否する豊臣家との間で有名な『大阪の陣』が起こるのですが。
嫌われていた石田三成。けれど彼が優秀だったからこそ秀吉も側においていたはず。
優秀なだけでは、人生うまくいかないと言うのがよくわかります。
歴史にはいろんな教訓が得ることができそうですね。
スポンサーリンク
コメント