明智光秀ってどんな人?その生涯とエピソードを紹介します!

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明智光秀 どんな人

必ず一度は耳にしたことがある有名な事件、『本能寺の変』。

この事件を起こしたのが“明智光秀”という有名な武将です。

何故彼は主君・織田信長を討とうと思ったのか。

一体どんな人物だったのでしょうか。

そんな明智光秀についてどんな人だったか生涯や性格がわかるエピソードを紹介していきたいと思います。

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明智光秀ってどんな人なの?その生涯は?

明智光秀の若い頃は…

明智光秀は1528年(1540年という説もあり)、岐阜県で生まれます。

青年の頃はどのような行動をとっていたかは、わかっておらず不明な点が多いそうです。

斎藤道三に仕えていましたが、内紛により道三が息子である斎藤義龍に討たれると、浪人となり各地を転々とします。

その後、朝倉義景に仕え始めました。

 

こんな縁で信長と接点を持つ

朝倉家に居た際、足利義昭が上洛する為に援助を求めてきたことで、足利義昭と接点を持つことになりました。

そして、足利義昭は信長にも援助を求め、光秀が織田信長の正室・濃姫(最初に仕えた斎藤道三の娘)の親戚だったという事もあって、足利義昭から信長の元へ仲介者として送られることになり信長と接点ができました(後に信長は足利義昭を支持して、15代将軍就任の手助けをしました)。

 

信長のもとで活躍!

1569年頃から信長の部下となり、羽柴秀吉らと共に京都とその周辺の政策を行うようになります。

1570年の『金ヶ崎の戦い』では秀吉と共に殿(しんがり:軍が退くときに最後尾にいて迫ってくる敵を防ぐこと)を務め、防戦に成功。

『比叡山焼き討ち』では中心的役割を果たし、近江国(現在の滋賀県)5万石を与えられ、坂本城を築城しました。

信長に領地を与えられたことにより、足利義昭と決別して正式に信長の直臣となります。

信長は光秀の賢いところを気に入っていたようで、どんどん出世していくことに。

足利義昭が信長に降伏し、室町幕府が滅亡すると1575年に惟任日向守(これとうひゅうがもり)となります。

ちなみに惟任日向守(これとうひゅうがもり)の惟任は九州の名家の苗字(信長は部下にこの名を名乗らすことで九州にも力があるぞ(攻めるぞ)という意味合いがあったと推測される。)。

また日向守は朝廷から任じられた官職です。

 

信長から評価されていたが…

その後、光秀は『長篠の戦い』・『雑賀攻め』・『有岡城の戦い』に参加。

丹波国(現在の京都府亀岡の辺り)攻略も任され、平定に成功すると丹波国を加増され、34万石の所領を持つことになりました。

信長も、「丹波国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛したそうです。

そして、1582年に秀吉の中国攻めの支援を命じられ出陣するも、京へ進軍(あの有名な本能寺の変!後で解説します)。

信長が宿泊していた本能寺を急襲し、信長を自害へ追い込みました。

その後信長が死んだという知らせを受け、中国地方から引き返してきた秀吉に敗れ、逃げる途中に落ち武者狩りに遭い、自害。

享年54歳。

光秀が信長を討ち天下人になってから、たった13日後のことでした。

この短さから『三日天下』と言われるようになったそうです。

明智光秀 エピソード

明智光秀の性格がわかるエピソードは?

光秀にはいろんな面(見方)があったよう

光秀は内政手腕に優れ、領民を愛し善政を行ったと言われています。

亀岡市・福知山市街は光秀が築城を行い城下町を整理したこともあり、亀岡では光秀を偲んで(しのんで)『亀岡光秀まつり』が行われ、福知山には同じく光秀を偲ぶ『福知山音頭』が伝わっているそうです。

その反面、フロイス日本史(戦国時代末期に日本でキリスト教の布教活動を行ったフロイトが編さんした歴史書)には、

  • 裏切りや密会を好む
  • 己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては策略を得意とし忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった

と記されています。

また和歌や茶の湯を嗜む(たしなむ)文化人だったそうです。

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奥さんに一途(いちず)

光秀は奥さんを一途に愛していたようです。

正室である煕子(ひろこ)が嫁に行く直前、疱瘡にかかり、顔に痕が残ってしまいました。

そこで煕子の父は光秀に何も相談せず、煕子そっくりの妹を嫁がせようとしました。

しかし光秀はそれを見破り、「自分の妻は煕子に決めている」と言い、煕子を妻に迎えたという愛妻家伝説が残っています。

自分が言われたら惚れてしまいそうなエピソードですよね。

 

こんな腕前があった!

朝倉家に仕えている時のお話です。

ある日鉄砲の腕前を披露することになりました。

わずか30センチ四方の的に、約45メートルの距離から100発の弾を発砲し、1発も外さなかったそうです。

そのうち中心に当たったのは68発。

残り32発もすべて当たっていて相当な腕前だったそうです。

他にも、飛んでいる鳥を鉄砲で撃ち落としたという話もあるとか。

 

この僧侶は光秀だったという説も…

“天海”という僧が光秀だったのではないか、という話があります。

天海は家康の右腕で100歳以上生きた僧で、「実は光秀は生き延びていて、家康に仕えたのでは?」と言われています。

数多くの共通点、似ているところがあるようで出生が近いことや、家光の乳母で大奥を牛耳った『春日局』は光秀の姪であること等からそのような憶測が流れているようです。

最も同一人物だとすれば享年は116歳となり、年齢的にやや無理ではないかというお話もあります。

果たして本当のところはどうなのか???

 

本能寺の変について

 本当時の変については様々な説があります。

  • 信長の短気な性格から常々非常な仕打ちを受けており、酒席で目立たぬように中座しかけると、「このキンカ頭(禿げ頭)」と他の家臣達の前で怒鳴りつけられ、頭を打たれたこともあったようで、このことから信長を日頃から恨んで起こした、という説。
  • 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。
  • 朝廷から命じられた説。
  • 徳川家康または羽柴秀吉黒幕説

などいろんな説が考えられています。

私個人的には家康か秀吉が黒幕だというお話が面白そうだなと思います。

実際、その後、時代の流れはそのように傾きましたしね。

まあ、家康か秀吉が黒幕でなくても、誰か一緒に協力してくれる武将がいない状態でやるのは、無謀(むぼう)すぎるようにも思います。

光秀は頭がいい武将だと伝わっているのに、本能寺の変が無謀すぎるのは歴史の謎ですよね。

まあ、禿げ頭と呼ばれ、人前で頭を叩かれるなんて、今だったらパワハラになってしまう気がします。

だとしたら恨んでいてもおかしくはないような気もしますね。

 

最後に

明智光秀がどんな人なのかその生涯や性格がわかるエピソードを紹介しました。

家臣や領民を愛し、愛妻家。

しかし信長のパワハラに耐えるほどの忍耐力を持っていた人物。

謎の部分も多い人物ではありますが、いろいろな一面も見えた気がします。

光秀について少しでも知っていただけたなら幸いです。

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