直江兼続ってどんな人?その生涯やエピソードや逸話を紹介!

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直江兼続 どんな人

直江兼続と言えば、歴史ファンの間では、大きな『愛』の字が特徴の兜を被っていたことが有名です。

直江兼続は義と愛の武将とも言われています。

そんな直江兼続がどんな人だったか、エピソードや逸話などを紹介していきます。

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直江兼続ってどんな人?その生涯は?

直江兼続の幼少時代は謎

 直江兼続は1560年、越後(現在の新潟県)で生まれました。

生誕後から、上杉謙信の死後に起こった後継者争い(上杉謙信が後継者を指名しなかったため起きた)が収束した1580年頃に謙信の義理の息子である上杉景勝の側近として資料で確認されるまでの間のことは何をしていたのかはっきりとしていません。

ただ、幼少期から景勝に仕えていたことは確かなようです。

 

1581年に主君の上杉景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害される事件が起こると、景勝の命により信綱の妻だった“お船”の婿養子となり、跡取りのない直江家を継いで越後与坂城主となります(ちなみに兼続の元の姓は樋口。有名な直江姓は婿養子として引き継いだものだったんですね。)

兼続は生涯、このお船という女性ただ一人を妻としており、側室もいなかったそうです。

義と愛の武将、と呼ばれる所以(ゆえん)の一つなのかもしれません。

 

兼続は上杉家の内政や外交のほとんどを

1584年に兼続と共に景勝を支えていた狩野秀治が病で倒れると、内政・外交の取次をほとんど担うようになり、本格的に景勝の右腕として活躍するようになります。

上杉家臣達からも『旦那』と呼ばれていたそうです。

佐渡征伐や小田原征伐等にも景勝に従って従軍。

上杉景勝は豊臣秀吉と仲を深めていたようですが、景勝が秀吉から会津(福島県)に120万の所領を与えられると、兼続もその功績から出羽米沢30万石を与えられました。

それだけ秀吉からの信頼も厚かったようです。

この頃に、戦乱で疲弊した越後を立て直すために様々な政策を実施。新潟が米所となる礎を作り、商業も発展させ越後に繁栄をもたらしました。

 

秀吉の死後に家康から…

秀吉の死後、会津の町を新たに作り直すために城を築城していましたが、台頭してきた徳川家康に謀反行為だと詰問(きつもん:相手を責めながら返事をせまってくること)されます。

兼続は反論を書いた『直江状』という有名な書状を送りますが、家康は激怒。

ちなみに直江状には『家康を裏切っていないことなんか、訴えた者を調べたらわかること。不平等なあつかいを受けるなら戦を起こして悪者と思われてもいい(家康に勝てるよ)』的な内容が書かれていたと言われています(後世で大きく改ざんされたという説もあるので、正しくないかもしれません。)

家康自ら会津征伐の為大軍を率いて会津に向かってきました。

しかし、その後すぐに石田三成が挙兵したため(関ケ原の戦いですね)、家康は会津征伐を取り止めて軍を引き上げることに。

これを知った兼続は、仲が悪かった隣国・最上家へ西軍として侵攻します。

しかし、本拠地を落とす前に関ヶ原の戦いは終了し、西軍は敗北。

責任を感じた兼続は自害しようとしますが、親友である“前田慶次”に諫められ(いさめられ)生きて景勝の元に戻ることを決意します。

追いかけてくる最上・伊達軍を相手に見事な戦いぶりで撤退に成功。

これには敵である義光や家康も賞賛し、後に日本陸軍にも取り上げられました。

その後景勝と兼続は家康に謝罪。

上杉家存続は許されるも米沢30万石に減らされてしまいます。

 

直江兼続は晩年も…

兼続は米沢でも内政手腕を発揮。

治水事業水田開発により農業を飛躍的に発展させ、町の整備・鉱山開発などを進め米沢藩が250年続く基礎を作り上げました。

そして1620年、江戸屋敷にて60年の生涯を終えました。

景勝は兼続の死に大いに悲しんだそうです。

直江兼続 エピソード

直江兼続のエピソードや逸話は?

兼続はこんな人と仲が悪かったらしい

 兼続は伊達政宗と仲が悪かったというお話があります。

伏見城で政宗が諸大名に大判を見せびらかしたことがありました。

兼続にもそれを見てみろと言うと、兼続は素手ではなく扇子で受け止め、はねるようにして表裏を見ました。

政宗は「遠慮することは無い。」と言って直接素手で触れて見るように勧めると兼続は、「いやしき物を取れば汚れるので扇にのせているのです。」と言って政宗へ投げ返したそうです。

他にも、徳川政権となり江戸城の廊下で政宗とすれ違うも、兼続は会釈すらせず素通りしてしまいます。

政宗がそれをとがめると、「政宗公とは戦場で何度かお目にかかったが、いつも負けて逃げる姿しか拝見したことが無かったので、気が付きませんでした。」と返答したそうです。

政宗のことをそれほどまでに嫌っていたということなのだと思いますが、イメージからは想像できないエピソードです。

 

兼続の豪胆(ごうたん)なエピソード

ある日兼続の配下の一人が召し使いを処断する事件が起こります。

「命を取られるほどのことはしていない」という遺族からの訴えに、調べてみると訴えた通りだった為、兼続は謝罪の意を込めて遺族に白銀20枚を送るように指示を出します。

けれど遺族達は「殺された五助を返して欲しい」との要求を繰り返し、説得には応じませんでした。

兼続は、「ならば迎えに行くがよい」と3人の遺族の首を刎ねて河岸に首を晒し、「この者たちを使者に出すので、死んだ五助を返せ」と閻魔大王へ手紙を記したという逸話が残っています。

 

直江兼続の兜の愛の由来は?

兜の【愛】の文字ですが、これは景勝の義理の父親である上杉謙信が『愛宕神社(あたごじんじゃ)』に武田信玄及び北条氏康の打倒を戦勝祈願したことから、一般に愛宕の【愛】からとする説が有力だそうです。

もう一つは、軍神として名高い『愛染明王』を信仰していて、その頭文字である【愛】を掲げたという説があります。

さらに民を愛する気持ちを戦場でも忘れないようにする『愛民』から来たという説もあります。兼続は庶民が豊かになれば国も豊かになると考えて、様々な政策を行ってきたので、こんな説も言われています。

 

最後に

直江兼続がどんな人だったのかエピソードや逸話を紹介しました。

主君の上杉景勝に対しては義に厚かったのかもしれませんが、嫌いな人物にはとことん毒を吐く人間だったようです。

思っていた人物像と違っていた方も多いかもしれませんね。

ですが毒舌だということも、なかなか面白い一面だと思います。

戦国時代って本当にいろんな性格の武将がいますねぇ。

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