織田信長・徳川家康とともに三英傑と知られる、豊臣秀吉。
天下人であり、そして農民から太閤になった秀吉は一体どんな人物だったのでしょうか。
そんな豊臣秀吉がどんな人だったのか性格やエピソードなども紹介していきたいと思います。
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目次
豊臣秀吉ってどんな人だったの?その生涯は?
秀吉の誕生日は?
豊臣秀吉の出自については明確なことははっきりとされていません。
生まれたのは、1537年3月17日とされています。
でも、実はいろいろな説があり、現在はこの説が有力とされているとか(家臣の伊藤秀盛が記していることから有力。正月に生まれたなどその他の説は太閤記などの創作と言われています。秀吉を物語的に神格化するため???)。
下層階級の出身であることは確かで、足軽と伝えられている木下弥右衛門と“なか”という女性の間に生まれたそうです。
秀吉はやっぱり優秀だった!
秀吉は、始めは“木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)”と名乗っており、松下之綱(まつしたゆきつな)という人物に仕えていましたが、天文23年(1544年)頃から織田信長の小姓として仕え始めます。
台所を取り仕切ったり、清州城の石垣の修理の際には、機転を利かせ数組に分けた部下に早く仕上がった組には報酬を与えると言ってお互いを競わせて工期を短縮させたりして大きな成果を挙げ、次第に織田家の中で頭角を現していきます。
信長の草履(ぞうり)取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいた、という有名な逸話もこの頃のお話と言われています。
その後も秀吉は活躍!そして本能寺の変が…
その後も数々の戦や城の建築で功績を上げていきます。
中国攻めでは『三木の干し殺し』『鳥取の渇え殺し』『高松城水攻め』といった、秀吉得意の兵糧攻めの戦術を遺憾なく発揮。
しかし、1582年に本能寺の変において信長が討たれると、『中国大返し(毛利氏を攻めていたが講和して京に向けて全軍を)』を決行し信長に謀反(むほん)を起こした明智光秀を破ります。
この中国大返しは岡山の備中高松城から京都までの200キロを甲冑を着込んでわずか10日で行軍したというとんでもないお話です。
新幹線もない時代に、重い甲冑を着込んでスピード行軍して更に光秀に勝ったなんて信じられないかもしれませんが、事実です。
もし筆者の私が秀吉の軍にいたとしたら嫌がるか早々に音を上げていると思います(笑)
本能寺の変の後は天下統一へ!
光秀を破った後は、『紀州攻め』・『四国攻め』・『九州討伐』を行い豊臣政権を確実なものにしていきます。
1586年、天皇から正式に下賜(かし:身分の高い人からくださること)され“豊臣”の姓を正式に名乗るようになります。
この時に太政大臣に就任しました。
そして1590年の『小田原の役』で北条氏を降伏させ、秀吉は天下統一を果たします。
天下統一後は…
天下人になった秀吉は有名な【太閤検地】や【刀狩り】等の政策を行います。
刀狩りについては“反抗できないように”とか“争いごとを無くす”等の目的でしたが、農民には意外に好評に思ったとか(農民がもう戦に参加しなくていいと思ったよう)。
その後朝鮮へ出兵しますが、兵役を課せられた西国大名を疲弊させ、豊臣政権の基盤を弱める結果になってしまいます。
この年に秀頼が生まれますが、後継として関白となっていた甥の秀次との間の溝が深まっていき(息子ができたら、息子の秀頼に継がせたいと思いますよね)、“秀次切腹事件”へと繋がってしまいます。
秀次の自害と共に妻子のほとんどを処刑。
この中には秀次に嫁いだばかりの最上義光(伊達政宗の叔父)の娘・駒姫もおり、更に伊達政宗なども嫌疑をかけられ、これが後に秀吉の死後に最上家と伊達家が徳川家康につくという結果になっていきます。
1597年、再び朝鮮へ出兵するもその1年後の1598年に五大老と一部の五奉行に宛てて遺言を出し、8月18日に伏見城にて死去。
62年の生涯でした。
死因については腎不全による尿毒症・梅毒の他、明の使者による毒殺等諸説あり、定かではないそうです。
豊臣秀吉の凄さや性格がわかるエピソードは?
秀吉は指が…
秀吉には指が6本あったという話があります。
『多指症』といって、どうやら本当のことらしく宣教師ルイス・フロイスの記した【日本史】と前田利家の【国祖遺言】にも記されています。
信長からは「六ツ目」と呼ばれていたとか。
天下人になるまでは隠していませんでしたが、天下人になると、その指の事実を消そうとした為に信じられてはいませんでした。
現在では6本指があった話は有力な説となっているそうです。
秀吉は女好き!
秀吉と言えば女好き。
そんな秀吉を支え続けたのが、北政所の名で知られている正妻・ねね(おね、と呼ばれることもあります)です。
当時としては珍しい恋愛結婚をしたにも関わらず、秀吉は結婚後もたくさん浮気をします。
これに怒ったねねはどうしたかというと、なんと主君である信長にこのことを訴える手紙を送ります。
それに対し信長は、ねねが持ってきてくれた数々のお土産に丁寧に礼をしつつ「あなたは初めて会った時よりも更に美しくなっている。このような女性はもう二度とあのハゲネズミには見つけられないだろう」といったような励ましの手紙を送り、そしてこの手紙を秀吉にも見せるように、と最後に書き記したそうです。
しかも“天下布武”の印を押して。
これを見た秀吉は恐れおののいたのではないでしょうか。
それでも、秀吉の女好きは治ることはありませんでしたが・・・。
けれどずっと傍ら(かたわら)で支え続けてくれたねねの事は大事にしていたそうです。
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将棋のこの駒も秀吉の影響だと…
秀吉は将棋の駒にも影響を与えたと言われています。
将棋の『王将』の駒の事ですが、中国から渡ってきたもので元は『玉』という字でした。
駒自体が人間が大切にするものが由来となっており、『玉』は命・魂の事を指します。
一番大切な部分であり、それを取られたら確かに終わってしまいますよね。
これを秀吉は「玉よりも王の方が良いだろう」と言って変更。
そして片方が『玉』もう片方が『王』として定着していったというお話があるそうです。
秀吉のこんな面を語るエピソードも
秀吉の残虐さを物語るエピソードがあります。
ある日、秀吉のお気に入りだった『聚楽第(じゅらくていまたはじゅらくだい)』の外門の白壁に秀吉の政治を批判する落書きが書いてありました。
これに激怒した秀吉は犯人を探すよりも先に警備担当だった17名を処刑します。
しかも、耳を切り落とし鼻を削いで。
犯人を見つけると、匿っていた(かくまっていた)者も処刑します。
それでも怒りが収まらなかった秀吉は犯人を匿っていた家を取り壊し、家があった町を焼き払い、その町の町民63名を犯人隠匿(いんとく)の罪で捕らえて、無関係の者まで磔にしたそうです。
秀吉の裏の顔、と言ってもいいかもしれませんが、恐ろしい話です・・・。
最後に
豊臣秀吉がどんな人だったのか、その凄さや性格がわかるエピソードなどを紹介しました。
人当たりが良く、誰もが好きになってしまうほどの愛嬌の持ち主。そして軽快なフットワーク。
だからこそ人に好かれ、天下人になれたという話があります。
けれどそれとは逆に残虐な一面も持っていた・・・。
それにはちゃんとした理由があったのかもしれませんが、二面性を持つ人物だったのかと思ってしまいますね。
それとも天下を取ってから、そんな二面性のある人物に変わってしまったのか…。
いずれにせよ、農民から天下人へ駆け上がった凄い人物であることに変わりはありません。
秀吉について少しでも知っていただけたならば幸いです。
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