織田信長ってどんな人?性格がわかるエピソードを紹介!

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織田信長 エピソード

織田信長というと短気で荒々しく冷酷な性格であると言われています。

けれど実際のところ信長はこんなふうに言われている通りの人物だったのでしょうか?

本当の信長はどんな人物だったのか・・・。

そこで織田信長がどんな人だったのかその生涯と性格がわかるエピソードなどを紹介していきます。

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織田信長ってどんな人?その生涯は?

織田信長は優れた武将の血をひいていた

 まずは信長の生涯を簡単に説明したいと思います。

1534年6月23日・尾張国(現在の愛知県)で生まれます。

信長の父・織田信秀も優れた武将だったそうで、信長もその血を引き継いだのか優れた武将に育ちました(後で書きますが、信長の若い頃はうつけ者と呼ばれ、しっかりしていない感じで見られていたようです。)

1559年、26歳で尾張を統一。

翌年の1560年、『桶狭間の戦い』で今川義元を破ります。

 

長篠の戦いで武田を破る

徳川家康と同盟を結んだり、『姉川の戦い』で浅井・朝倉氏を破ったり、天下統一への道をすすんでいきます。

しかし、1573年の『三方ヶ原の戦い』では武田信玄に惨敗してしまいます。

けれど、その後の『長篠の戦い』において家康との連合軍で信玄の息子・勝頼を破り、武田に勝利しました。

長篠の戦いと言えば、信長が大量の鉄砲を用いたという話が有名ですよね。

 

本能寺の変が起きる!「是非に及ばず」とは?

こんなふうに天下統一に向けて順調に進んでいた中、1582年、49歳の若さで本能寺の変がおき、自害しました。

この本能寺の変についてですが、当初誰が襲ってきたのかわかっていませんでした。

けれど、それが“明智光秀”だとわかると「是非に及ばず(何も論ずることがない)」と語ったことが有名です。

この言葉の解釈についてはいろいろな説があります。

  • 戦を仕掛けられたのだから、戦うしかない(議論している時間はない)。
  • 光秀に謀反を起こされたのも自分が原因だろう。仕方があるまい。
  • 光秀ほどの人間が攻めてきたのでは、あきらめるしかない。

などなどです。

そんな「是非に及ばず」にはいろんな説がありますが、死を悟った信長は自ら火を放ち燃え盛る炎の中自害したそうです。

信長の性格がわかるエピソードは?

織田信長のエピソードや性格は?

信長は楽市楽座などで街を活発化

信長は城下町を発展させるために『楽市楽座』という政策を行っています。

「座」という商人たちの組合を廃止。市場を支配していた人たちがいなくなり、新しく商売を始めやすくなったため城下に新規参入者が増加します。

市場税という税金も廃止。

商人には“安土城下の道路を使うこと”“泊まる場合は安土の地に宿泊すること”を義務化することで町が潤い活性化させていきました。

また関所も廃止し、道の舗装や橋を架けたりすることで通行や運搬をスムーズにする政策も行っていたようです。

当時では珍しく簿記も採用していたとか。

 

信長の若い頃は…

信長の若い頃は“うつけ者”と呼ばれていました。

父親の葬儀でお焼香を投げつけるなど非常識な行動が目立っていましたが、これについてはわざとうつけな態度をとって、人を見極めていたのではないかとの説もあります。

妻・濃姫の父親であり義理の父にあたる斎藤道三に会いに行くときにはきちんとした服装で言ったようなので、常識を知らなかったわけではないようです。

見聞を広げる為、父・信秀の了解も得ていたというお話もあったりします。

 

信長と言えば残虐なイメージがあるけれど…

延暦寺の焼き討ちにおいても、信長は僧侶だけでなく女性や子供まで徹底的に殺害しています。

しかしこれについては、僧達が権力や軍事力を持ったり、女に溺れるなど宗教としての意義を忘れた僧侶たちの腐敗ぶりを批判していたからとか。

残虐かもしれませんが、やると決めたら徹底的にする人物だったのかもしれません。

ルイス・フロイスによると『長身・痩躯で髭は少なく、声は甲高い。常に武技を好み粗野。酒をほとんど嗜まない』と記されています。

声は500メートル先から聞こえたぐらい甲高かったとか。

癇癪持ちで人の話を聞かなかったために教育係の平手政秀が信長の行動を諫めるために切腹もしたと言われています(後で信長は正秀の慰霊のために正秀寺を建立しています)。

信長のような上司だと、家臣達も苦労していたのかもしれませんね・・・。

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信長は癇癪持ち?

癇癪(かんしゃく)持ちの信長ならではのエピソードを一つ。

ある日、ある茶坊主が信長を怒らせてしまいます。

恐れた茶坊主は棚の中へ隠れました。

なかなか相手を捕まえられない信長は業を煮やして棚ごと茶坊主を圧し切ってしまいます。

この時使用した切れ味抜群の刀は『圧切(へしきり)長谷部』として名付けられ、有名な刀として現在伝わっています。

・・・棚ごと切るなんて恐ろしいですね。

 

信長には優しい一面も

信長は身分に関係なく仲良くなっていたようで、庶民と一緒に踊ってはその汗を拭いてあげたり、工事をするときには信長本人が現場監督として現場に姿を出していたそうです。

また女性にも優しかったとか。

妻を尾張国に残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、秀吉とねねの夫婦喧嘩を仲裁したりしています。

娘たちについても、生前に縁組させ家臣らに嫁いだ娘たちは信長の死後も夫から大事にされ続けたこともあり、『娘を大事にしてくれそうな婿を選んだ甘い父親』と評されているとか。

 

信長には黒人の家臣がいた?

イタリア人宣教師に奴隷として連れてアフリカから連れてこられ、京都では物珍しく騒ぎになります。

それを聞きつけた信長も興味を持ち、その黒人を目の前に連れてこさせます。

初めて黒人を見た信長は、“肌を黒く塗っているのでは”となかなか信用せず、着物を脱がせて洗わせますがより一層黒く光りました。

仕込みではないとわかった信長はいたく気に入り、『弥助』と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身辺に置いていたそうです。

城持ちの大名に取り立てようという話もあったとか。

弥助は、本能寺の変において明智光秀に捕らえられるも、命は助けられ南蛮寺に送られました。

その後信長の遺品を家族に届けたというお話が残っています。

 

かなりの甘党という話も

信長は実はかなりの甘党だったようで、中でも金平糖が大好物。

ルイス・フロイスと謁見した際もフラスコに入れられた金平糖を受取り無邪気に喜んだとか。

下戸でお酒が飲めず、茶会で交流していた信長は宴会では酒ではなくみたらし団子のタレを飲んだというお話もあるそうです。

 

信長で有名なこの逸話は?

信長で有名なのは金に塗られた髑髏(どくろ)を盃にして飲んだ話。

けど実際はこれは本当の話ではないようです。

ただ、年賀の宴で、浅井長政・久政、朝倉義景の骸骨に箔濃(はくだみ:漆塗りをしたものに金粉をかけたもの)を施し、披露したことがあったそうです。

普通に考えればあまりいい印象ではないのですが、家臣たちはゾッとせずむしろ“めでたい、めでたい”と喜んだそうです。

高貴な場所に敬い飾ることで、信長なりの供養の気持ちを表していたのではないか、というのが真実のようです。

 

まとめ

織田信長がどんな人なのかその生涯と性格がわかるエピソードを紹介しました。

信長は冷酷で残虐。

そう思われていた人も多いと思いますが、違う一面もたくさんあったようです。

甘党で子どもみたいにはしゃいで、優しい一面も持っていた・・・(甲高い声は勘弁して欲しいですが(笑))

こんな信長を更に好きになる方もおられるのではないでしょうか。

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