栃木県にある有名な社、『日光東照宮』。
多くの人が訪れる場所です。実は私はまだ行ったことがなく、テレビでしか見たことはありません。
この日光東照宮に祀られているのが、江戸幕府を開き初代将軍となった“徳川家康”です。
そんな徳川家康がどんな人物だったのか、エピソードなどをこれから紹介していきたいと思います。
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目次
徳川家康ってどんな人?その生涯は?
徳川家康の幼い頃は…
1543年1月31日、三河国(現在の愛知県)岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれます。
幼名は竹千代。
6歳の頃に父が今川家に服属した為、人質として今川家に送られることになりましたが、その途中で織田家に誘拐され、そこで織田信長と出会いました。
この頃から信長とは仲が良かったそうです。
再び今川家へ!
それから2年後、父・松平広忠が家臣によって殺されます(下克上の時代だったので家臣に殺されることもあったのでしょう)。
そして、信長の異母兄である信広が今川家に敗戦し捕まってしまうと、人質交換によって再び今川家に送られることに。
今川家での生活は、今川義元の”自分に好意を抱かせ扱いやすい武将にする”作戦もあり、待遇が良く贅沢をさせてもらっていたようです。
けれど、このことが『必要以上の贅沢に良い影響はない』という考えとなり、家康がケチと言われる所以(ゆえん)になったとか。
桶狭間が転機になる!
その後、今川義元が桶狭間の戦いで亡くなり、家康は独立に成功し信長と同盟を結び三河国を統一。
それから後の、信長の天下統一への道を支えていく事になっていきます。
独立してからも苦難が続く!
ただ家康は独立してからも、苦難が続きます。
武田との内通疑惑をかけられた自分の正室・築山殿を殺害し、嫡男・信康を切腹させることもおきました。
この内通疑惑での事件は、いろんな説があります。
信長が家康の息子の信康を恐れたからとか、武田のスパイが徳川家に入り込んで築山殿と息子信康を操ろうとしたからとか、単に親子の仲が悪かったからとか様々。
なんにしろ、この時の家康はきっと複雑な心境だったのだと思います。
家康の忍耐強い精神力は、幼い頃の人質時代だけでなく、この事件の影響もあるのではと思います。
その後も活躍はするが信長が…
三方ヶ原での武田信玄との戦いにおいて惨敗するも、その3年後の『長篠の戦い』では信玄の息子・勝頼に勝利します。
その後、武田家を滅ぼすと駿河国(現在の静岡県の辺り)領有を認められます。
このように同盟を結んだ信長のもとで活躍をします。
しかし、信長が天下統一への道を進んでいく中、1582年に本能寺の変がおき、信長死去。
堺にいた家康はこれを聞くと狼狽(ろうばい)して信長の後を追おうとしますが、家臣の本多忠勝らに止められて伊賀山中を通って岡崎城に戻ります。
そして甲斐・信濃(現在の山梨県と長野県)に攻め込み、北条家に勝利して2カ国領有に成功します。
1584年、『小牧・長久手』の戦いにて秀吉と争うも、領国内で地震などの災害が起こりその立て直しの為に抗争を断念。
秀吉との抗争をあきらめ、秀吉に臣従します。
この際に関東に領地を変えられて江戸城の城主となりました。
秀吉の生前は秀吉の5大老の一人として、権力がふるいました。
秀吉の死後に影響力が増大
そして秀吉の死後、各大名に対して、家康の影響力が増大。
『関ヶ原の戦い』で勝利すると、征夷大将軍となり江戸幕府を開きます。
将軍職を息子・秀忠に譲りますが、大御所としての実権は握ったままでした。
大阪の陣にて秀吉の息子・秀頼を滅ぼすと朝廷から太政大臣に任命されます。
そして1616年6月1日に駿府城にて75歳で死去。
死因はガンだったそうです(食あたりで亡くなったとも言われています)。
徳川家康の凄さやエピソードなども教えて欲しい。
徳川家康は倹約家で健康志向?
家康は倹約家で着物もずっと同じものを着ていたり、下着も汚れが目立たない黄色のものを愛用。
質素を好んで健康食を心掛けていたとか。
健康意識も高く、中国の医学書を読破し自ら薬の調合を研究していたそうです。
武田との戦いではこんなことが…
三方ヶ原での武田との戦いの時の事。
圧倒的な負けを喫し逃げ回る際に、馬に乗りながら便を漏らしていたとか。
それだけ命がけだったという事でしょうが・・・、なんとも言えない気持ちになります。
家康は”2度とこんな失態をおかしてはならない”という教訓にする為に、便漏らしの自画像を描かせました。『しかみ像』という名で有名だそうです。
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家康は様々なことに才能があった
学問に明るく、外国人の協力を得て地理や建築学にも興味を持つ幅広い教養の持ち主だったようです。
また”たぬき” というあだ名から小太りなイメージがありますが(実際肥満体ではあったそうです)、実は剣術・馬術・弓術・銃といったあらゆる武道の達人だったそうです。
肥満体、という体格からは全く想像できませんよね。
徳川家康の性格は?
『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』は家康の性格を表す有名な句です。
この言葉の通り、十数年の間今川と織田の人質として過ごし織田信長や豊臣秀吉に従い、忍耐強く待ち続けました。
また寡黙な人物だったとか。
その反面、短気な一面もあり、自分が不利になると親指の爪や扇子を時に血が出るほどかじっていたり、攻められ孤立無援になるとすぐに自害しようとしたり、関ヶ原の時には動こうとしない小早川秀秋に向って大砲を撃ったりしています。
一方でかつての仇敵であっても、召し抱えて棒禄を与えるなど過去の怨恨に囚われず、情に厚い一面もあったようです(歴史小説では家康の情に厚い一面は裏があってのことみたいに書かれることは多いですが(苦笑))。
徳川家康の死因は?
死因は天ぷらだったとの説もあります(わりあい有名な説です)。
それは死ぬ3か月前に高齢であった為に天ぷらを食べすぎて内臓が悪くなった、というだけであり弱くなっていく様子や症状から「胃ガンだったのでは」とも言われています。
家康にはこんな伝説も!
家康には『影武者伝説』があります。
大阪夏の陣で真田幸村が家康のいる本陣を襲った際に討ち取られており、もしそれがバレてしまえば江戸の政治は混乱すると考え、それを防ぐために”小笠原秀秋”という人物が身代わりを努めたという説だそうです。
実際に堺にある南宗寺には『家康の墓』とされるものがあるそうなので、意外と信憑性(しんぴょうせい)は高いかも???
まとめ
徳川家康がどんな人だったのか、その生涯やすごさがわかるエピソードを紹介しました。
徳川家康という人物はただの”狸おやじ”ではなかったのですね。
家康の意外な一面もあって、家康へのイメージって過去の物語などで作られた部分も大きいのだなぁと思います。
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