高杉晋作ってどんな人?性格がわかるエピソードを紹介します!

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高杉晋作 どんな人

幕末の偉大なる志士、高杉晋作。

一度は耳にしたことがある名前です。

教科書で一通り教わるけれど詳しいことがわからない人も多いと思います。

高杉晋作ってどんな人物だったのか、エピソードや性格を紹介していきますね。

 

高杉晋作ってどんな人だったの?

松下村塾で大きな影響を受ける

現在の山口県萩市(昔は長門国萩と呼んでいた)に1839年9月27日に生まれます。

長州藩士であり、19歳の頃に吉田松陰の『松下村塾(しょうかそんじゅく)』で学び大きな影響を受けました。

この松下村塾では初代総理大臣の“伊藤博文”や倒幕の志士として名を残す“久坂玄瑞(くさかげんずい)”等有名な人物も学んでいました。

そして晋作は中国・上海に留学後日本に戻り尊王攘夷運動に参加します。

1862年にはイギリス公使館焼き討ちを実行するなど過激な行動をしていたようで、長州藩の手を焼かせていました。

 

奇兵隊を結成

しかし、長州藩が外国船の砲撃等で欧米諸国や幕府・朝廷を敵に回すと幕府に対抗するために『奇兵隊』を結成します。

奇兵隊というのは武士だけでなく農民や町民等も参加できる身分の問わない義勇軍的組織。

最盛期には640名もの人が参加していました。

従来の軍制を改革して、西洋式の訓練を取り入れ(軍事訓練だけでなく教養も教育していたとか)、当時の最新兵器を取り扱う最強の部隊だったそうです。

 

幕府との戦いで活躍したが…

その後、長州藩代表としてイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国連合軍との和議をまとめます。

そして長州藩を倒幕へと統一させると、薩長同盟を経て第二次長州征伐にて海軍総督を努めて勝利しました。

この際に、独断でイギリスから買った蒸気船・『丙寅丸(へいいんまる)』に乗って、幕府の軍艦に夜襲したりしたそうです。

しかしこの時にはすでに肺結核に冒されており、療養のかい無く大政奉還を見ることなく27歳の若さでこの世を去りました。

伊藤博文曰く『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し』と言うほど行動力もあり、型破りな人物だったそうです。

高杉晋作 エピソード

高杉晋作の性格がわかるエピソードは?

高杉晋作はかなり気が強かった

 上級武士の家に生まれ、身分は高かったようで、それもあってなのか幼少期から気が強い性格だったようです。

ある日の事。

遊んでいた凧が地面に落ちた時に、通りがかった武士に踏まれてしまいます。

謝ろうともせずに立ち去ろうとする大人の武士を呼び止めると、問い正し最終的に土下座をさせたそうです。

侍に土下座をさせるなんて・・・。

物凄く非常識で恐ろしい少年です。

 

吉田松陰の影響をかなり受けていた

松下村塾で学んだ期間は約1年ほどでしたが吉田松陰とは強い結びつきでした。

松陰が『安政の大獄』で処刑された後も松陰の教えを実践します。

草莽崛起(そうもうくっき)という『身分に囚われず、皆がより良い世のために立ち上がるべき』という松陰の考えを元に奇兵隊は作られたようです。

 

将軍が上洛したときに…

1863年に将軍・徳川家茂が上洛、孝明天皇の賀茂神社行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)に従って多くの見物人の中を進むときに「よっ!征夷大将軍!」と叫びます。

失礼千万ではありましたが行幸の列を乱すことも出来ず、おとがめはありませんでした。

この時晋作に同行していた山縣有朋も後年に「声をかけていたが、何と言ったのかはわからなかった」と語っています。

天皇もおられる中、しかも天下人である将軍に声をかけるなんて本当に非常識でありますが、よほど肝の据わった人物だったという事かもしれないですね。

 

最後に

 高杉晋作がどんな人物なのかを紹介してきました。

高杉晋作という人物はまさに“幕末の英雄”と称されるほどすごい人物だったということが良くわかりました。

この記事を読んで、高杉晋作という人物をますます好きになって頂けたら嬉しいです。

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