“雑賀孫市”という人物をご存知でしょうか?
ゲームにも登場し、ワイルドな容姿と男らしい性格や言動等から女性達から人気が出ている人物の一人です。
私もゲームをしている中でその名を知ることが出来たのですが、“鉄砲を操る人”ということしか知りません。
そんな雑賀孫市の逸話や魅力について紹介していきます。
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目次
雑賀孫市の逸話って?どんな人なの?
雑賀孫市ってどんな人?
“雑賀衆(さいかしゅう)を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける”という言葉が戦国時代には実際に言われていたそうです。
戦国最強の鉄砲傭兵集団『雑賀衆』。
そんな雑賀衆を率いていたのが雑賀孫市(さいかまごいち)という人物です。
紀伊半島の南西部にいた
雑賀衆は大名家とも寺社勢力とも異なる集団で、紀伊半島の南西部を支配していました。
紀伊半島では多くの鉱石や木材を得ることができ、鍛冶や林業などの工業技術が発達。
また海にも面しており、漁業や貿易業も盛んで、山・森・海でそれぞれ働く人々によって職人たちの組合のようなものができ、それらの集まりの代表が相互に協力して運営されていた共同体が『雑賀衆』でした。
雑賀孫市で有名な鉄砲って?
雑賀孫市といえば“鉄砲”が有名です。
もちろん雑賀衆も鉄砲を用いて戦っていました。
種子島から日本にもたらされた2丁の鉄砲の一つが雑賀衆と深い関係にある勢力『根来衆(雑賀衆と同じ紀伊国の武将集団)』の“津田監物”という人物によって紀伊半島に持ち帰られ、根来衆にて試作が成功し雑賀衆へと伝わります。
元々雑賀衆は貿易などもしており、火薬の材料となる『硝石』も手に入りやすかったこともあり、当時新兵器であった鉄砲で武装していき最強の勢力を有する集団になっていったのでした。
鉄砲が伝わる前から雑賀衆は傭兵的な役割も受けており、鉄砲を持ったことによりその戦力目当てに各地の大名家から頻繁に援軍依頼をされるようになり、雑賀衆は『鉄砲傭兵集団』となって“雑賀を制すものは全国を制す”とさえ言われたそうです。
雑賀孫市は謎の部分も多い
さて、この雑賀孫市についてですが、実はその正体は不明でこの人が雑賀孫市である、というはっきりとしたことは未だにわかっていません。
というのも、“孫市”という名前自体を雑賀党鈴木氏という雑賀衆の頭目的存在の頭領や有力者が代々継承し名乗っていたからです。
一般的に雑賀孫市と言われているのが“鈴木重秀”という人物です。
雑賀孫市は信長を苦しめる
雑賀孫市は信長を苦しめた人物であると伝えられています。
その信長を苦しめた合戦が『石山合戦』です。
雑賀衆の多くが一向宗の門徒であったこともあり、一向宗の本願寺からの要請で雑賀衆は石山本願寺の籠城に加わります。
しかし信長も反一向宗の根来衆や信長派の雑賀衆の一部を雇っていました。
同じ集団ではありましたが利害関係があったりして一致団結はしていなかったようです。
本願寺側の雑賀衆は鉄砲の多段撃ちと水軍を操り、織田軍を完膚なきまでに叩きのめします。
こうしたこともあり、信長と本願寺との戦いを10年も長引かせました。
これにうんざりした信長は雑賀衆を先に討伐することを決意。
10万という大軍を雑賀衆の里に派遣します。
この中には豊臣秀吉や明智光秀など有名な武将達もいました。
圧倒的不利を悟った本願寺側雑賀衆は、誓紙を書いて信長に従ったそうです。
鉄砲の多段撃ち
鉄砲多段撃ちに関しては信長がこの戦の後に起きた『長篠の戦い(織田徳川軍が鉄砲を使い武田軍をやぶった戦い)』において用いた戦術と同じようなもので、2列に並べて前列が撃っている間に後列が弾を込めて交互に前に出て、連続発射するという方法です。
信長よりも先にこの戦法を実用化していたとか。
長篠の戦いのときに、信長も参考にしたのでは?なんて思ってしまいます。
雑賀孫市の次代も活躍
孫市を名乗った鈴木氏は、重秀の次代にあたる“鈴木重朝”という人物がその後も活動。
なので、雑賀孫市は鈴木重秀、鈴木重朝の2人が混ざった形で雑賀孫市という人物として伝わっている部分もあるようです(その他歴代の雑賀孫市が混ざっているとも言われています)。
その次代の重朝は関ヶ原の戦いでは西軍として伏見城攻めに参加して鳥居元忠を討ち取ります。
西軍が負けた後は浪人となりましたが、伊達政宗に取り立てられ雑賀衆に伝わる騎馬鉄砲術を伝授し、この騎馬鉄砲隊は大阪・夏の陣で大いに活躍します。
そして政宗の推薦もあり水戸・徳川家に仕えたそうです。
雑賀孫市ってかっこいい!魅力は?
雑賀孫市の鉄砲の腕は?
『蛍、小雀、下針、鶴首、梟、発中、無二』等といったガンマン達の異名があり、闇夜の蛍や小雀、細い鶴の首を撃ち抜き、梟のように夜目が利くという恐るべき射撃術を表現している話があるそうです。
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八咫烏(やたがらす)の子孫?
雑賀孫市の旗印の3本足の『八咫烏(やたがらす)』は神武天皇を導いた神であり、自分たちが八咫烏の子孫であるという意識を持ち、それを誇りにしていたとか。
最強集団、雑賀衆は?
織田軍の精鋭相手に一度も後れを取ることなく堂々と立ちはだかり、権力の野望にも固執することなく、金をくれれば傭兵としてどこへでも出かけ、陽気で酒好き。
お祭り騒ぎ大好き。
けれど、戦えば剽悍(ひょうかん:すばやく荒々しく強いこと)でけた外れに強い集団であった。
あくまでも伝説の中であり正体不明の人物ではありますが、最強集団である雑賀衆を率いていたからこそ、その魅力とかっこよさが伝説として残っているのだと思います。
最後に
雑賀孫市の逸話について解説してきました。
雑賀孫市、という人物自体が特定できてない正体不明の人物であったという事実にとても驚きました。
けれど最強の集団を率いていた人物であるということは確かですし、謎多き人物だからこそひかれてしまうのかもしれませんね。
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