島左近ってかっこいい!エピソードや逸話を紹介します!

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島左近ってかっこいい!

石田三成の家臣と言えば、島左近という武将の名が一番に上がると思います。

三成にはもったいない家臣だといわれた彼は一体どんな人物だったのでしょうか?

これから島左近の逸話やエピソードについて紹介していきます。

なかなかかっこいい人物だったようです。

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島左近の逸話は?

島左近が歴史に現れたのはココから

島左近の本名は島清興(しまきよおき)

自筆では島ではなく”嶋”と名乗っていたそうです。

大和平群郡(現在の奈良県生駒郡平群周辺)で生まれたとされていますが、1571年の筒井順慶と松永久秀との『辰市合戦』の前に「嶋左近尉殿」と名前が初めて見られるまで史料が無く、詳細は不明だそうです。

 

筒井順慶の家臣であったことは確かのようで辰市合戦以前に松永久秀と戦った『筒井城の戦い』等で軍略を磨き、左近が重臣となってから『信貴山城の戦い』において筒井順慶は松永久秀を倒しました。

その後も筒井家に仕えていましたが順慶の死後、筒井家を継いだ筒井定次の悪逆非道な政治に絶望し筒井家から姿を消します。

それから近江へ渡り浪人生活を送っていた左近ですが、多くの人から仕官の要請をされ、それを断り続けていました。

 

石田三成は島左近にぞっこん

そんな左近に熱烈にアピールしたのが石田三成です。

自分の持っている4万石のうち2万石を与えると言うほどの熱意に打たれ、左近は三成に仕えることに。

秀吉からは『三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近に佐和山の城』と称されるほど優秀な武将でした。

 

三成に様々な案をすすめるが

秀吉の死後、天下を狙うべく行動していた徳川家康を警戒して“家康暗殺計画”を三成に相談するも、正々堂々戦うことを主張し暗殺を許さなかったために三成はその案を受け入れませんでした。

関ケ原の前哨戦である『抗瀬川の戦い』では兵500を率いて東軍相手に勝利します。

このまま攻め入りたいと考えた左近は、島津義弘とともに夜襲を提案するも再び却下されてしまいます。

もしもここで三成が首を縦に振っていればその後の状況も変わっていたかもしれません。

 

島左近は関ケ原で

そして関ケ原の戦いへと突入します。

黒田長政の軍と激突した左近は鬼神の如き活躍で有利に進行していきますが、島津や毛利等の傍観(手を出さずにいること)の姿勢により徐々に劣勢に。

左近は長政の鉄砲隊によって負傷してしまいます。

そして小早川秀秋の裏切りによって西軍は瓦解。

しかし、負傷しつつも三成の為に最後まで奮戦し、討死しました。

享年61歳でした。

島左近 逸話

島左近のかっこいいエピソードは?

島左近は機転がきく

浪人をしていた時のこと。

金に困っていた左近は吉野の親族に借金の無心をします。けれどこの親族は欲が深くケチだったため断られてしまいます。

思案した左近は口の上手い人を使者として送り、「少し金が必要なのでお借りしたいのですが無理にとは言いません。しかし、財宝を困っている人に惜しみなく分け与えるような家であれば子孫は繁栄し悪いことも起こらないでしょうが、そうでない人であれば災害が降りかかるでしょう」と伝えさせました。

これを信用した親類の男はすぐに金を用立ててくれたそうです。

 

左近は秀吉から一目置かれていた

三成が左近を家臣に迎えたことを聞いた秀吉は左近を呼び出し「これからは三成に忠誠を尽くせよ」と言って羽織を渡したそうです。

秀吉は本当に島左近のことをかっていたことがわかります。

 

島左近は欲がない?

また、三成が佐和山城19万4000石の大名となり、左近の禄を増やそうとしましたが左近は「他の人々に与えてください」と断ったとか。

島左近は欲のない人だった?、ということでしょうか。

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関ヶ原の後で戦った兵たちは…

関ケ原の戦い後、左近の勇猛さは黒田軍の脳裏に焼き付きました。

左近の鬼の形相で「かかれー!!」という怒声が長政の兵たちの夢に出てきて苦しませた、という話があるそうです。

 

島左近生存説

島左近には生存説が多く語られています。

関ケ原で戦死しておらず、京都に落ち延びて僧として生活したとか。

遺体が最後まで見つからなかったことや、京都で「左近を目撃した」と言う人が相次いだそうです。

また多くの書物に記載があり、僧として生活したとされている『立本寺』には墓や位牌もあり、この寺の僧として関ケ原から32年後に死去したと記されています。

他にも熊本や滋賀にも逃げ延びたという伝説が残っているそうです。

静岡県浜松市には島家の子孫がおり、広島県東広島市西条にある酒造会社『白牡丹株式会社』も島左近の子孫が代々社長職を引き継いでいるそうです。

左近が本当に生きていたら、すごいことだとは思います。

だとしても徳川がそれを黙って見過ごすことがあるのでしょうか。

それとも、僧になっていたからこそ徳川からも逃げられ、生き延びることができたのかもしれません。

書物やお墓などが残っている以上、生存説は有り得るのではないかと思ってしまいますし、そのほうが歴史好きにとってはとても興味深いお話ではないでしょうか。

 

最後に

島左近がどんな人だったか逸話やエピソードを解説しました。

島左近については謎な部分も多々あるようです。

ですが優秀な武将であったのは確かなようですし、欲の無いけれど忠義に厚い人物だったのだろうと思います。

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