本多忠勝ってどんな人?最強なエピソードを紹介します!

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本多忠勝 どんな人 最強

最強と名高い“本多忠勝”。

有名な姫路城の城主であった本多忠政の父親でもあります。

一般的に屈強な男の人だというイメージを持たれていると思います。

では、本当に本多忠勝は屈強な男だったのでしょうか。

そんな本多忠勝がどんな人だったかエピソードと一緒にお話ししていきたいと思います。

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本田忠勝ってどんな人?性格は?

本多忠勝の性格がわかるエピソード

 徳川四天王の一人である忠勝は1548年3月17日に三河国(現在の愛知県)で生まれました。

父・忠高が亡くなると叔父の忠真のもとで育ちます。

幼いころから家康に仕えていたそうです。

そんな本多忠勝の性格がわかるエピソードがあります。

14歳の頃、叔父である忠真が忠勝に手柄を立てさせようくれようとして、忠勝が槍で刺した敵兵の首を取るように言いました。

そうすると、忠勝は「誰かの助けで手柄を立てたくない!」と言い敵兵に突撃し、自分で敵兵を倒して首を取ったそうです。

それを見た叔父や周りの武将たちは『ただ者じゃない』と感じたとか言われています。

 

家康に忠節をつくした

1563年に起こった『三河一向一揆』では、一向宗の門徒であった本多一族の多くが主君である家康に敵対しますが、自分は浄土宗に改宗して忠節を尽くし、武功をあげます。

1570年の『姉川の戦い』にも参加。

朝倉1万の兵が家康の本陣に向かってくると単独で突撃。

家康もそれに続いて見事勝利しました。

 

あの武田軍との戦いでも活躍!

武田軍との『三方ヶ原の戦い』の際、偵察に行ったときに武田軍が予想よりも早く迫っていたのを発見し、家康に報告するために撤退するも追撃されてしまいます。

忠勝は家康を逃すために大久保忠佐とともにしんがりを勤め、武田軍の猛将・馬場信春の部隊相手に果敢に応戦。

見事家康を逃すことに成功しました。

この戦いぶりに武田方の武将も感心したそうです。

 

忠勝は数多くの戦を経験した武将!

このように、忠勝はたくさんの戦をし、数々の武勲をあげています。

その戦の数は63年の生涯で57もの数になります。

しかも、戦場に身を置きながらかすり傷さえ負わなかったとか。

それだけ強い証拠であり、強運の持ち主でもあったのかもしれませんね。

 

有名な関ヶ原の戦いでは…

そして、あの有名な『関ヶ原の戦い』でのこと。

忠勝53歳。わずか500人余りの手勢で90余りもの首級(敵を討ち取ること)をあげるも、愛馬『三国黒』を亡くし、自身も落馬をしてしまいます。

これには敵も味方も、そして自分自身も驚いたようで、絵や文で記録を残しました。

けれどこの戦果に対しては周りの評価も高く、福島正則からは賞賛されましたが、忠勝は「相手が弱かっただけだ」と言ったそうです。

 

地元の民から名君ともいわれる

合戦後は家康から5万石増やし、10万石から15万石にしようかと打診されるもこれを辞退。

忠勝が5万石を辞退したためか次男の忠朝を分家にして大多喜(千葉県の辺り)5万石を与えられ、自分は伊勢国桑名(三重県辺り)10万石の藩主になります。

そしてすぐさま桑名城を修築。

『慶長の町割り』と呼ばれる都市計画事業を断行。

そのおかげで東海道・桑名の整備も進められ、地元から名君と仰がれています。

 

亡くなる前のエピソードも忠勝らしい

忠勝は死去する前、一度だけ傷を負います。

小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた際に眼病か老齢からか、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまいました。

『本多忠勝も、傷を負ったら終わりだな』と呟いた数日後亡くなったそうです。

1610年10月18日。63年の生涯でした。

本多忠勝 エピソード

本多忠勝のエピソードは?最強なの?

ここからは、本多忠勝の他の最強なエピソードを紹介していきます。

秀吉からも一目を置かれる

『小牧・長久手の戦い』での秀吉との戦いの際、秀吉率いる数万もの大軍が押し寄せてくるとわずか500の手勢で妨害。

川を隔てて秀吉軍と並ぶと、忠勝は川へ単騎で乗り入れて悠然と馬の口を洗うという豪胆な振る舞いをします。

秀吉はこれを見ると“自分の家臣に迎えたい”と考えて、忠勝を討ち取ることを禁じたそうです。

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有名な本能寺の変でも…

『本能寺の変』が起こると、堺にいた家康は“京へ向かい明智光秀と戦う!!”と言い出しました。

また、家康は信長の後を追って切腹しようとしたという説もあります。

なんにしろ、忠勝は家康を取り押さえて本拠地へ戻るように説得。

(このときの家康のお供は少人数で戦える状態ではなかった)

家康を護衛して伊賀(三重県)の山中を抜けて無事に岡崎城へ戻りました。

 

本多忠勝は武具にもこだわりが

忠勝は武具にもこだわりを持っていたようです。

兜は鹿の角をあしらったものを用い、鎧は『黒糸威胴丸具足』という一般的なものであったようですが、丈夫なだけではなく軽量で動きやすいものにしていたそうです。

また戦場に臨むたびに肩から大きな数珠を下げていました。これはかなり重い物だったようです。

討ち取った敵に対して慈しみを持つ武将だったのではないかと思います。

 

武器については、『蜻蛉切(とんぼきり)』という天下三名槍の一つに数えられている槍を扱っていました。

この槍については有名で、耳にしたことがあるかもしれません。

飛んできた蜻蛉が槍に触れるとたちまち真っ二つに切れたことからこの名前がついたそうです。

長さはなんと2丈(約6メートル)もあり、柄も太かったとのこと。

自分の身長の3倍以上もの長さの槍、しかも結構な重さではなかったのかと思いますが、それを扱っていたなんて・・・。

忠勝が最強と言われるのも納得です。

 

最後に

本多忠勝がどんな人だったかみてきました。

あらめて、本多忠勝は最強だったのだと実感しました。

身の丈の3倍以上もある槍を扱うなんて、無理です。

しかも怪我もしたことがない。

本当に凄い武将だったのですね。

本多忠勝の強さを少しでも実感していただけたのであれば幸いです。

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