今や知らない人はいないのではないかというほど知名度が上がった武将“伊達政宗”。
女性達から絶大な人気を誇っています。
私自身も、ランキングをつけるとしたら必ず1位だと答えるほど好きな武将です。
伊達政宗は一体どんな人物だったのか、エピソードなどを紹介していきます。
スポンサーリンク
目次
伊達政宗ってどんな人なの?
政宗は幼少期から優秀であったが右目を失明
1567年 8月3日生まれ。
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)と言います。
幼少期から、布団に横たわらず柱に寄りかかり仮眠し、常に手に書物を持っていました。
記憶力もよく、家臣や商人でも一度見れば姓名や風貌(ふうぼう)まで必ず忘れることは無かったとか。
4歳の時に疱瘡(天然痘)という病気で右目を失明してしまいます。
このことから、後に有名な独眼竜というあだ名がついています。
ただ、その片目が失明したことでで母親は政宗を忌み嫌うようになり、弟である小次郎を可愛がるようになります。
これが後に、母である義姫が小次郎を次期当主に据えようと画策して政宗を暗殺しようとした事件になってしまいました。
けれど父親である輝宗は、政宗の才能に期待していたようです。
若い頃は領土拡大に
わずか10歳で元服し、“梵天丸”から“政宗”へと改名します。
18歳で家督を継ぐと24歳の頃には100万石の大名となりました。
若い頃は領土拡張に邁進。
1585年から1589年で奥州(現在の東北地方)南部を平定してしまいます。
父親との別れ
実はこの頃、大変ショックな事件が起きました。
政宗が19歳の頃、父の輝宗が畠山義継に誘拐され人質となります。
鷹狩りに出かけていた政宗は急きょ戻り追跡。
鉄砲を放ち輝宗もろとも一人残らず殺害してしまいました。
実の父親を殺してしまった政宗はどんな気持ちだったのでしょうか・・・。
これにも父親が邪魔(じゃま)だったと思っていた説もありますが、人質となった輝宗が『自分もろとも義継を撃て』と言った、という話があります。
私はこの話が事実だろうと、思っています。
時代は豊臣に…
血気盛んで、領土欲が強かった政宗。
天下統一も狙っていたようですが、この頃には豊臣政権による安定の時代へ向かっていました。
20年生まれてくるのが早ければ天下を獲れたかも、と言われているようですよ。
この豊臣秀吉に関して有名なお話があります。
1590年、豊臣秀吉が小田原(現在の神奈川県)の北条を攻めたとき、家臣になるように求められました。
政宗はぎりぎりまで迷うも、秀吉に従い小田原へ行きます。
けれど、ぎりぎりまで迷いすぎて予定よりも遅れて到着してしまいました。
もちろん秀吉は「遅すぎる!!」と激怒。
それに対し政宗は『死ぬ覚悟』であると見せるために白装束(切腹するときに着る白い着物)の姿で秀吉に会います。
それを見た秀吉は堂々とした政宗を気に入り許したそうです。
度胸のある男らしい男だと、認められたということですね。
秀吉の死後は…
豊臣秀吉の死後は徳川家康の時代が来ると思い、徳川家に協力するようになります。
関ヶ原の戦いも徳川家康側の東軍に所属しました。
そうして徳川幕府ができて江戸時代になり、仙台の青葉城を拠点に影響力のある仙台藩の大名となります。
3代将軍徳川家光の信頼は厚かったようです。
1636年 5月24日 69歳で政宗はこの世を去ります。
死因は病死だったそうです。
伊達政宗のかっこいいエピソードってある?
伊達男はここから
朝鮮出兵の出陣式の際、伊達軍はきらびやかな戦装束を身にまとっていました。
金の日の丸が描かれたのぼり。
足軽隊は金のとんがり笠を被り、朱鞘(しゅざや)の太刀と銀箔の柄頭(つかがしら:刀の柄にある先のところ)の脇差(わきざし)。
騎馬武者の鎧はすべて黒で、兜の前立ては金色の半月。
馬飾りは虎・豹・熊の毛皮に孔雀の羽がついていました。
政宗自身は熊の陣羽織を羽織っていたとか。
金の装束に、毛皮の飾り・・・。
当時では大変貴重な物ばかりだったと思います。
それを見た京の人々はとても驚いたのではないでしょうか。
けれど、これは、政宗が朝鮮出兵には反対の為、派手好きな秀吉が気に入りそうな派手で美麗な戦装束を整えることで、あわよくば伊達の軍勢を京の居留守隊に選んでもらおうともくろんだ演出だったようです。
それも空しく一回目は居留守隊に選ばれず。
けれど二度目の朝鮮出兵の際には成功して居留守隊に選ばれました。
そして、この時の装束が評判となり、『伊達男』=派手でおしゃれな男性、という言葉の使い方が定着したそうです。
もちろん、白装束で秀吉と面会した、ということも由来となっています。
政宗は愛煙家だった
政宗は煙草を嗜んで(たしなんで)いたようです。
遺品にも愛用のキセルがあります。
起床後・昼時・寝る前の3回。
規則正しく。
用法を守ってきちんと服用してください、と言いたくなるような・・・。
まるで薬のようだと思いますよね?
実は、当時の人にとって煙草=薬だったようですよ。
もちろん、実際の煙草は体には悪いものに変わりはありません。
政宗は文化芸術の才能もあった
政宗は詩歌や書・能・茶道など多くの才能がありました。
常に文芸の場を設けて文人を招いていたそうです。
その当時天皇だった『後水尾天皇』より和歌を激賞されたこともあったそうです。
晩年は能に夢中になり、秀吉の前で披露したほどの鼓や太鼓の名人でした。
料理好きでもある
政宗は大の料理好きでもありました。
徳川政権時代には料理の研究に勤しむ(いそしむ)ほど。
二代将軍徳川秀忠を手料理でもてなしたこともあり、三代将軍家光には全国津々浦々の名産を吟味し、選び抜いた材料を使って献立を準備。
考案も、味見から配膳まで何一つ人任せにはせず自分で行ったそうです。
『ずんだ餅』も、兵量開発の一環として政宗が作ったものです。
『伊達巻き』についても、『平玉子焼』というヒラメの肉に卵を混ぜて焼いたものがあり、そこから『伊達焼』となりよく知る『伊達巻き』となったようです。
スポンサーリンク
政宗は筆まめ
政宗は手紙を書くことも好きだったようです。
3000通以上の自筆の書状が確認できるようです。
大名は口で言って家臣に書いてもらうことが多かったそうですが、政宗は自筆で書かれた手紙が多くありました。
政宗の正室『愛姫』
政宗と同じくらい私が大好きなのが政宗の正室である愛姫(めごひめ)です。
愛姫とのエピソードからも政宗の意外な一面が見えてきます。
二人は政略結婚で夫婦となります。
当初は愛姫の実家である田村家の侍女達が政宗を暗殺しようとしたことがあり、ぎくしゃくしていましたが、ゆっくりと愛を育んでいきました。
名の通り可愛らしい女性だったそうですが、それだけではなく秀吉の命により京へ移り住んだ際には手紙で京の情勢を知らせていました。
また秀吉が大の女好きであることや天下の動きを警戒して、『私のことは気にせず、天地の大義に従って去就をお決めください。いざという時の為に、懐剣(自害用の)を常に持っております』という手紙を送ったりしたなど可愛いだけではなく聡明な女性だったようです。
愛姫の死後、遺品を整理していると文箱の中から政宗が愛姫にあてた手紙がたくさん出てきました。
今で言うラブレターですね。
政宗の可愛らしい一面のように思います。
政宗は死ぬ間際まで愛姫の見舞いや世話を拒んだそうです。
「こんなみっともない姿を見せられん。」と。
最後まで、愛姫に対して伊達男を貫きたかった、ということでしょうか。
そんな愛姫も、死に際には夫の『月命日に旅立ちたい』といって、本当に月命日である1653年1月24日に84歳で亡くなっています。
最後に
伊達政宗がどんな人かエピソードを紹介しました。
暗殺されそうになったり、父親を殺してしまったり、政宗は波乱万丈な人生を送ってきたのだと改めて思いました。
けれど、愛情溢れる人間でもあったのではないでしょうか。
特に愛姫へたくさんラブレターを送っていますから。
政宗っていろんな一面があるから、今も人々から話題にされているのでしょうね。
スポンサーリンク