甲斐の虎『武田信玄』。
誰もが一度耳にしたことはある有名な武将であり、上杉謙信のライバルとも言われています。
信玄と言えば、“風林火山”の文字が書かれた軍配を持ち、髭面で椅子に座ってどっしりと構えているイメージがあると思います。
けれど実際はどんな人だったのでしょうか。
もしかしたら見た目と違い病気がちだったりするかもしれません(笑)
そんな武田信玄についてどんな人だったのか?エピソードを紹介していきます。
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目次
有名な武田信玄ってどんな人だったの?かっこいい?
まずはその生い立ちから見ていきたいと思います。
信玄が家督を継ぐまで
1521年11月3日、甲斐国(現在の山梨県)の大名・武田信虎の長男として生まれます。
小さい頃から積極的に学問を学び賢く聡明だったそうです。
そのため武力で甲斐を統一し武闘派であった父・信虎との関係は次第に悪化していき、信虎は信玄の弟の信繁ばかりを可愛がりました。
1541年6月、21歳の時に信虎へ不信感を募らせた重臣達と協力し、クーデターを起こして父を駿河(今の静岡県の辺り)に追放。家督を継ぎました。
この頃は、父親を殺して家督を継ぐ武将も多く、また兄弟と権力争いが勃発し兄弟を殺害に追い込むこともありました。下克上な時代ですね…。
けれど、信玄は追放はしたものの追放先の今川家に現在にすると1億円とも言われる生活費を毎年送金しており、また、弟の武田信繁とも兄弟仲はよかったと言われています。
万全な体制を築くためだったのかもしれませんが、信玄は優しかったのだと私は思ってしまいます。
信玄が家督を継いでからの生涯は?
その後、今川家・北条家との関係を安定させてから信濃国(現在の長野県辺り)に侵攻し大部分を平定します。
その後も武田信玄は戦いの歴史です。
その際に越後に追われた村上義清が上杉謙信に助けを求めたことで、有名な「川中島の戦い」が幕を開けました。
信玄はその後も今川氏真を攻めて駿河に侵攻したり、織田信長を牽制する為に信長の盟友である徳川家康を攻めるために遠江(静岡県の一部)・三河(愛知県の一部)に侵攻したりと、たくさんの戦をしていきました。
信長とは、信長の娘を自分の息子である勝頼の妻に貰ったり、逆に娘の松姫と信長の長男である信忠と婚約させるなど友好関係にありました。
けれど信長の比叡山焼き討ち事件がきっかけとなり対立。
足利義昭の『信長討伐命令』に応じる形で出発すると徳川軍を蹴散らし、連戦連勝で進軍していきます。
そして『三方ヶ原の戦い』で徳川・織田連合軍を惨敗へと追い込みました。
けれどこの頃にはすでに病魔に侵されており、甲斐への帰路についていた途中、1573年4月12日に53歳でこの世を去ります。
その死因は「胃ガンまたは食道ガン」と言われています(または結核だったとの説もあり)。
戦に強い武田信玄も病には勝てなかったのですね・・・。
信玄が亡くなった後…
信玄は「自分が死んだことは3年隠せ」と言って亡くなっています。
自分の息子である勝頼の力を信頼しておらず、自分が死んだことで敵の士気が上がると考え、死んだ後も戦に勝とうとしていました。
けれどその名を世に馳せていた武田信玄ですから、死んだことは敵にバレバレだったようです。
それで、息子の勝頼が戦った『長篠の戦い』ではぼろ負け。
織田・徳川・北条が武田領に攻め込んでくれば、城は次々と落とされ家臣たちも勝頼を見捨てて逃げ出す始末。
最終的に勝頼は妻子とともに命を絶ち、死んでも戦に勝とうとした信玄の願いも空しく、信玄の死から10年も経たない間に武田家は滅亡してしまいました。
武田信玄の数々のエピソードも紹介
武田信玄は強い!でも…
72戦49勝3敗20分。これが信玄が戦をした内訳です。
20分の引き分けの多くは上杉謙信との戦いだと思われます。
ほぼ勝ち戦ばかりの信玄ですが、3敗したのはすべて同じ武将だったようです。
その名は村上義清。
上杉謙信に助けを求め、『川中島の戦い』の始まりとなった人物です。
その義清と初めて戦ったのは27歳の時。『信州上田ヶ原の戦い』にて、信玄は敗北します。
その時まで怖いもの知らずで何もかも順調に行っていた頃に味わった初めての大敗。
信玄は戦場から立ち去ることもせず20日間留まり続けました。
家臣からの要請で母が説得に来ても頑として耳を貸さず動かなかったそうです。
戦場にとどまっていれば、いつ命を狙われてもおかしくありません。
けれど大切な重臣を失い、その悲しさと責任の重さを自らの体に刻み付けようとしたのだそうです。
その後も2回義清に負けてしまいますが、最終的には村上氏の諸将と内通したり降伏させたりと内側から義清を追い込んだのでした。
負け戦から学び、どうしたらよいのかと成長していく武将だったようです。
武田信玄は内政面でも
信玄は資金確保の為にイベントを開催して人を集め商業を発達させたり金山の発掘などで内政面でも多くの成果を上げます。
また『信玄堤』と呼ばれる堤防を築き治水事業にも取り組みました。
このこともあり領民には愛されていたそうです。
家臣に対しても、合戦の準備の為に自分と息子である義信が赴く際には事前に手紙を送り断りを入れた等気配りも細やかに行っていました。
信玄の格言に『人は城 人は石垣 人は掘 情けは味方 仇は敵なり』
という有名な言葉があります。
領民を思い、家臣に対しても細やかな気配りを忘れない信玄は、部下に慕われる良い上司であり、名君であったのではないかと思います。
武田信玄は温泉好き?そして…
信玄は温泉好きだということをご存知でしょうか?
信玄の隠し湯も多数あったそうです。
それよりもさらに驚いたのが、“トイレがとても広かった”ということ。
たたみ6畳ぶんよりもかなり広かったそうですよ
四隅には香炉を置き、朝・昼・晩の三交代制で小姓に番をさせて香りを絶やすことはありませんでした。
これがトイレ芳香剤の始まりとも言われています。
また排泄後に「鈴」を鳴らすと、風呂場の残り湯がトイレの建物の下から送られてくるという水洗トイレだったそうです。
戦国時代に珍しい水洗トイレで、しかも芳香剤つき。
あのいかつい信玄からはなかなか想像できない一面です。
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信玄はこんな一面も
また信玄は男ったらしでもあったようです。
信玄が書いたとされる言い訳がましい手紙が残っており、それは男に向けた恋文だったとか。
戦に行くときに、若く賢い男性に世話を焼かせたりしていました。
その中でも目をかけていた美青年がいたそうですよ。
この当時は美青年に身の回りの世話をさせることは普通のことで『男色』という言葉もありますから、当然のことではあるのですが・・・。
これも信玄の新たな一面になりますね。
山梨の有名なお土産『信玄餅』
信玄餅と言えば、きな粉をまぶした餅に黒蜜をかけて食べる山梨の有名なお土産品です。
私も食べたことがあるのですがとても美味しかったです。
山梨に行ったら絶対に買って帰りたいお土産です。
けれどこの『信玄餅』、武田信玄とは全く関係がないことをご存知でしたか?
もともと、武田信玄が出陣の際、非常食として砂糖入りの餅を使っていた、という説がありこれに由来しているという話があるそうなのですが、「武田信玄が餅を好んで食べた」という事実自体が全く存在しないのだそうです。
この信玄餅を作った社長の中丸さんも、“山梨を代表する武将・武田信玄の名前をお借りした”と語っておられるので信玄の名前にあやかっただけというのが本当だそうです。
それでも、発売日翌年の大河ドラマで偶然にも武田信玄がメインのドラマが放送され、そのことで信玄餅も有名になったそうなので、信玄の名前の効果はあったのだと思われます。
信玄が非常食として餅を使っていた、という話も信じてみるのもロマンがあっていいかもしれないですね。
最後に
武田信玄はどんな人かエピソードを数多く見てきました。
信玄については面白いエピソードが多くありました。
特にトイレなんて、画期的で面白いエピソードだったと思います。
勇ましく、どんと構える信玄にも負け戦があったり・・・。
これを読んで、また違った見方で信玄のことを見ることができるのではないかと思います。
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