上杉謙信ってかっこいい!どんな人だったの?エピソードは?

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る
上杉謙信ってよく聞くけど、かっこいいの?どんな人だったの?

“上杉謙信”という武将の名前を一度は耳にした人も多くいると思います。

一度は学校の授業で習ったことがあるのではないでしょうか。

けれど最近は戦国時代をテーマにしたゲームも発売され、もっと耳にするようになってきました。

私自身歴史が好きで、上杉謙信は好きな武将の一人です。

ですが、実際、上杉謙信ってどんな人だったのか?

伝え聞く話やゲームの中のようにかっこいい感じだったのか?

そこで上杉謙信が実際どんな人だったか解説していきます。

スポンサーリンク

上杉謙信ってかっこいいの?どんな人だったの?

上杉謙信は幼少期から・・・

1530年1月21日、越後国(現在の新潟県)で守護職についていた上杉家を補佐する役職についていた長尾為景の四男として謙信は生まれました。

その後、戦(いくさ)を経て部下などから実力を認められ家督を相続し当主となっています。

戦国時代の世の中になっていたので、戦の才能があるのが大きかったのでしょう。

幼少期は、『林泉寺』に預けられ、厳しい修行のもと、深い知識や厚い信仰心を得ます。

その反面で寺の修行をおろそかにしてまで城の模型を使って兵の駒を動かしたり大砲や道具を用いた、『城攻めシミュレーション』をしていたそうです。

この経験をもとにして後に“軍神”や”毘沙門天”と呼ばれるようになったのだと考えられます。

 

上杉謙信の強さは?

14歳で元服すると翌年には攻め入ってきた近辺の豪族達の背後を突いて撃退し、初陣を飾りました。

その後も反乱や謀反を収め、22歳という年齢で越後を統一してしまいます。

それから、織田信長や武田信玄、北条氏康といった有名な武将たちと幾度も戦を行っていきました。

特に武田信玄とは有名な『川中島の戦い』で5回戦っています。

その戦の数は元服してから約35年の生涯で70戦、勝敗は40勝2敗(1敗という説も)25分と言われています。

同じように戦国大名で有名な織田信長は16敗していると言われているので、勝率だけ見るとむちゃくちゃ強かったと言えます。

そのため『越後の虎』『越後の龍』『軍神』という呼び名で恐れられたそうです。

 

上杉謙信はこんな人

謙信は、私利私欲のために戦をすることはなく、戦国時代の当時戦略として行われていた裏切りなどの卑怯(ひきょう)な手は全く使っていませんでした。

下剋上をすることもなく、助けを求めてきた人の為に戦をするなど、真面目で義を重んじる人間だったようです。

ライバルであった武田信玄も「何かあったら上杉謙信を頼れ。あいつは信用できる人間だ」と息子である武田勝頼に言い残しているのですから、武将からの信用はとても高かったのだと思います。

負け戦もほぼなく、義を重んじ人の為に戦をする・・・。

すごくかっこいいですよね。

上杉謙信のエピソードは?

上杉謙信ってかっこいい?エピソードは?

では、次に上杉謙信のかっこいいエピソードを紹介していきます。

上杉謙信の強さが伝わるエピソードは?

1559年、謙信方についていた唐沢山城(栃木県佐野市にあります)の城主、佐野昌綱は北条軍3万5000の兵に囲まれてしまいます。

それを聞きつけた謙信は8000の兵を連れて駆け付けました。

けれど城はもう落城寸前。

このままではピンチと思った謙信は自分が直々に城の中に入り援護すると言うと、甲冑も身に着けず、十文字槍を携え40騎ほど(13騎との話もあります)で北条の軍勢を一直線に突破してしまいます。

その勢いは「夜叉羅刹(やしゃらせつ:古代インド神話の悪鬼の総称)とは是(これ)なるべし」と伝わるほどの凄まじさだったそうで北条勢は誰も手を出せなかったそうです。

そのおかげで北条勢は戦意喪失し城の包囲を解いて退却したそうです。

恐るべし、上杉謙信・・・。

 

上杉謙信のかっこいいエピソード

今度は謙信が北条氏の拠点である小田原城を攻めた時のお話です。

謙信は城の近くの蓮池の端に馬をつなぐとそこに腰を下ろし、敵の目の前であるにも関わらず弁当を食べ始めます。

敵兵が50メートルほどの距離で鉄砲で数回撃ち込みますが、鎧のそでなどを打ち抜いただけで身体には一つも当たらなかったそうです。そのまま謙信はゆっくりとお茶を飲んでいたとか・・・。

視察に行っただけという話があるそうですが、もしこの話が本当だったら・・・、自らを毘沙門の化身だと言っていた謙信はまさにその『毘沙門天』に守られていたのかもしれません。

 

ちょっとかっこ悪いエピソードもある

このようにかっこいいエピソードばかりの謙信ですが、その死に様はとてもかっこ悪いものとなってしまいました。

謙信はもともとお酒が大好きで、その肴(さかな)も『干物、梅干し、塩や味噌』。

見事に高血圧に引っかかるものばかり。

今の健康診断では確実にアウトです!!

このような食生活を続けていくと動脈硬化が起こり、血管が破れやすくなります。

そして、1578年4月15日、まだ朝は肌寒いこの季節に遠征の準備をしていた春日山城内の厠(かわや、今で言うトイレのこと)で昏倒、昏睡状態となり、その4日後の4月19日に49才でこの世を去りました。

トイレが原因で亡くなる・・・。かっこいい謙信とは思えない亡くなりかたですよね?

その後、きちんと遺言を残していなかった為に家督争いが起こってしまったりと・・・。

謙信のかっこ悪いエピソードになってしまいました。

スポンサーリンク

敵に塩を送る

 『敵に塩を送る』という言葉をご存知でしょうか?

敵の弱みにつけこまず逆にその苦境から救う、という意味。

これは上杉謙信がライバルであった武田信玄の領民たちが塩の不足に苦しんでいるのを知り、塩を送ったことからできた言葉です。

ですが、このお話は実は少し違っていたという説もあります。

 

1567年、信玄は同盟を結んでいた今川氏真との関係を悪化させていき、氏真は信玄の領地、甲斐国(現在の山梨県辺り)への塩の提供をやめてしまいます。

甲斐の国は内陸の国。海に面してはなく塩を採ることが出来ません。

そのため今川氏を通して塩を買っていたのですがそれがなくなるとなるということは、死ねと言っていることと同じこと。

信玄はほとほと困り果ててしまいました。

それを知った謙信が心配に思い塩を送った、ではなく実際は自分の国から塩の流通を続けていただけだったそうです。

むしろ、通常よりも高い価格で塩を売ったという話もあります。

謙信にとっては大切な資金の為に、利益を落としたくはなかっただけのこと。

それが今では美談となって残っているという説です。

塩で商売をしつつ、鬼人のように領地を責めてくる・・・、なかなか複雑な感じです。

 

ただ、信玄を助けるためという説も多くあり、信玄は感謝の気持ちに福岡一文字の太刀『弘口』を送っています(この太刀も通称『塩留の太刀』と呼ばれています)。

単にビジネスの為に流通をとめなかっただけなのか、信玄を助けるために謙信自らが塩を送るように言ったのか。

私は、義に厚い謙信が塩を送り届けた、という話を信じたいと思ってしまいます。

 

上杉謙信は女性だった!?

 謙信が女性だったのではないかという話を耳にしたことをあるかもしれません。

上杉謙信は妻もおらず生涯独身。もちろん子供もおらず養子をとっていました。

このことも女性説の根拠の一つだとなっています。

ですがこれは根も葉もないうわさにしかすぎず、信憑性(しんぴょうせい)は全くありません。

妻を取らなかった理由は、

  • 崇拝している毘沙門天の教えが妻帯禁制だったから
  • 実は大の男好きで男にしか興味がなかったとか
  • 若い頃の失恋が原因

等と言われています。

その当時妻を娶らない武将はとても珍しい存在でしたから

謙信 = 女性

という説が出たのかもしれませんね。

 

最後に

 上杉謙信のエピソードを数多く紹介しました。

戦に強く義に厚い、かっこいい謙信。

その反面トイレで亡くなってしまったり・・・。

この記事が少しでも謙信について知る手助けになれば幸いです。

スポンサーリンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

 

 

SNSでもご購読できます。

コメントを残す