『西郷どん』の愛称で呼ばれている西郷隆盛。
大河ドラマの主人公にもなっています。
西郷隆盛と言えば幕末に活躍した人物。
私も学生のころ西郷隆盛について学んだことがあります。
『薩長同盟』とか『江戸城無血開城』とか。
聞いたことはあるかと思います。
けれど、彼はどんな性格の人だったか、どんな生涯(しょうがい)だったのでしょうか?
これから、西郷隆盛の魅力やエピソードついて紹介していきたいと思います。
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目次
西郷隆盛の魅力は?どんな人なの?
西郷隆盛は巨漢
1828年1月23日生まれ。身長は約183cm、体重100数㎏の巨漢でした。
お相撲さんぐらいありますね・・・。
現在でもそんな体つきだったら、かなり存在感があると思います。
子供の時から、体格はよく腕っぷしも強かったようです。
そのため、自分達の仲間を大切にしていたとか。
右腕に後遺症
ある日のこと、別の少年グループとのけんかの際に、復讐してきた相手に後ろから斬られてしまい右腕が完全に曲がらない後遺症を負います。
利き腕が使えないのは武士にとっては致命的。
そのため、西郷隆盛は力ではなく学問で身を立てようと猛勉強しますが、その間に両親が他界。
一人で西郷家を支えることになります。
2度自害しようとするが助かる経験がある
その後、島津斉彬に気にいられますが、斉彬が急死すると後を追って殉死(じゅんし)しようとします。
その時に月照という僧が助けてくれたのですが、今度はその月照が尊王攘夷派であったために幕府から追われることに。
月照を助けようと奔走(ほんそう)するも救うことが不可能だと悟った隆盛は一緒に海に身を投げます。
この時も隆盛は生き延び、月照は亡くなってしまいました。
西郷隆盛は、忠義のためそして一度は生きることを決意させてくれた人物の為に二度も自殺未遂を図ったのでした。
その後も不遇の時代を過ごすが・・・
助けられた隆盛は、幕府の追及を逃れるために『菊池源吾』という名で薩摩藩によって奄美大島へ島流しとなりました。
そしてほとぼりが冷めるまで3年間過ごします。
3年後帰郷した隆盛は、その頃に薩摩藩の実権を握っていた島津久光に暴言を吐いた等の理由で帰郷後わずか2か月ほどで再び、今度は奄美大島よりもさらに遠い沖永良部島へ流されます。
もともと隆盛と島津久光は折り合いが悪かったようです。
このように西郷隆盛は2度も島流しになっています。
何かをなしえる人は不遇の時代があると言いますが、まさしくこの時代は西郷にとって不遇の時代とも言えるでしょう。
西郷どんが復帰!大活躍!
その後大久保利通などの後押しで復帰し、それからは活躍していきます。
坂本龍馬の仲介により長州藩の桂小五郎とあの有名な『薩長同盟』を結び、戊辰戦争(王政復古を目指して薩摩藩、長州藩、土佐藩中心の新政府軍と幕府軍で争った戦争)で活躍します。
その後勝海舟との交渉では温情を見せ、江戸城の『無血開城』を認め、総攻撃を中止し江戸の街を救いました。
このように敵に対して温情的な対応をしていたので江戸の庶民からは慕われていたそうです。
ですが、西郷隆盛は、主君に相応しい人物でなければ認めないという強い信念を持ち、味方に対しては大きな包容力を持っていましたが敵には厳しい処断をすることもありました。
主君と認めた島津斉彬とは違い、島津久光へは反抗するなど二面性を持つ人物だったようです。
ただ、自分の強い信念のもと動いていただけ、であるかもしれません。
西郷隆盛のさいごは?
1877年、西郷隆盛は西南戦争を起こします。
けれど、この西南戦争は新政府のやり方に疑問をぶつける為。
勝ち目がないこともわかっており武力で訴えるのは間違いだと思っていましたが、新政府に疑問を持ち、集まってきた者たちの気持ちを優先したそうです。
降伏して命ごいをすることもできましたが、自分が逆賊の汚名を背負い1877年9月24日、別府晋介の介錯で自害しました。享年49歳。
介錯を行った別府晋介以下300人の兵士も後を追って亡くなりました。
こうして反逆罪の汚名を着た隆盛でしたがその後赦免され、功績を称える有志たちによって上野公園にあの有名な、犬を連れた銅像が建てられました。
西郷隆盛のいろんなエピソードも紹介!
上の項目では西郷隆盛の歴史を簡単に見てきました。
ここからはさらに魅力が伝わるために、いろんなエピソードを紹介していきます。
西郷隆盛の妻は?
西郷隆盛には3人の妻がいたことをご存知でしょうか?
最初の結婚は隆盛24歳の頃。名は『須賀(すが)』と言いました。
けれど西郷家が大家族で貧しかったため、見かねた須賀の実家が介入してわずか2年で離婚しました。
2度目は31歳。奄美大島に流されていた頃に『愛加那(あいかな)』という女性を妻に迎えます。
2人の子供にも恵まれますが薩摩へと戻ることになると、『島妻制度』という、島の女性を薩摩に連れて帰ることが出来ない制度の為に、泣く泣く二人は別れることとなってしまいました。
そして37歳の頃、その後の生涯の妻となる『糸(いと)』という名の16歳下の女性を娶ります。
糸は大家族の西郷家を守り、3人の子供にも恵まれたそうです。
3人の女性を愛し、愛された人生だったのでしょうか・・・。
西郷隆盛はダイエットしていた?
100数㎏あった隆盛ですが実はダイエットに挑戦していたようです。
脂身のついた豚肉、甘い物好きでしたが、1873年頃は肥満を治そうとしてドイツ人医師の治療を受けたり趣味の狩猟で野山を駆け回りダイエットに励んでいたとか。
西郷どんは犬好き!
その狩猟の際に、猟犬を連れて行っていたそうです。
銅像でも連れている姿が有名ですが、もともと犬好きだったようで、実家で数匹の犬を飼っていたそうです。
中でも『ツン』という雌犬が有名ですが、小柄な犬でしたが気性は荒かったそうです。
西郷隆盛は慎ましい(つつましい)生活をおくっていた
西郷隆盛は偉い身分になっても、家も質素で食べるものも着るものも周りががっかりするほど慎ましい(つつましい)ものだったようです。
そうすることで、急にぜいたくになった重臣を戒(いまし)めようとしたとか・・・。
このような態度から自分のぜいたくに興味がなく、常に民衆のことだけを考えていた人と語られています。
実際のところは定かではありませんが、ケチなだけだったかもしれないと考えるのも面白いかもしれませんね。
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西郷隆盛の写真はない!?
実は西郷隆盛は写真が1枚も残っていません。
残っている肖像画・銅像、どれも本当の顔か定かではないとか。
有名な肖像画は上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山厳の顔をモデルにしたそうです。
上野の銅像についても、公開に招かれた妻の糸がそれを見て「夫はこんな人じゃなかった」と言ったそうです。
写真嫌いで、明治天皇が写真提出を求めた際も写真撮影が嫌で提出しなかった、という話もあるようですよ。
最後に
以上が西郷隆盛についてのお話です。
西郷どんの生涯や魅力について紹介してきました。
写真嫌いについては自分も苦手なのでなんだか親しみを感じてしまいます。
犬好きというのは可愛らしい一面ですよね?
犬をなでて癒(いや)されていたのか・・・、接しているときの様子を想像してしまいます。
あの厳つい顔が、子供のような無邪気な表情になっていたのかもしれませんね。
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