太子は歴史などで学んで、日本人にとってなじみ深い人物です。
いろんな常人ではないエピソードも数多く伝えられています。
そこで聖徳太子ってどんな人なのか、謎なエピソードを紹介していきます。
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目次
聖徳太子ってどんな人なの?すごい偉人と聞くけど…
聖徳太子ってどんな人?
西暦574年2月7日に厩(ウマヤ:馬小屋)の前で産声を上げられたと伝えられています。
ただ、それはあくまで伝承であって、正直にお伝えすると歴史が証明できない人物。
近年、研究によっては実在しなかったという説まで登場している人物です。
聖徳太子の生涯についても、よくわかっていないみたいのが正直なところみたいです。
お札になった偉人 聖徳太子
実在したかどうか別にしても、聖徳太子が高額紙幣の代名詞ともなっていました。
1930年(昭和5年)1月11日を皮切りに何度もお札に使われています。
1957年(昭和32年)10月1日に発行された5000円札。
1958年(昭和33年12月1日に発行された1万円札は25年間もの間、国民の紙幣として使われ続けたのです。
お札の肖像に使われた数、何と七回にも及んでいます。
いかに国民に親しまれた方であるかという裏付けでもありますよね。
聖徳太子が日本初の憲法を作った
聖徳太子は推古天皇の摂政(せっしょう:女帝や幼帝に代わって政務を代行する役割)として活躍された603年には十七条憲法と冠位十二階を制定。
十七条憲法では、平和であることをうたいながら、実は専権を振るう権力を牽制(けんせい)する役割のあった憲法でもありました。
手続きをふみ決めごとを文章にしたものとしては、日本最初の成文法といわれています。
聖徳太子が生きられた時代は、まさにいつ何が起こるかわからない時期だったとも言えます。
蘇我氏と物部氏の血で血を争う事件などが起るのは当たり前だった時代ですが、同族の中でも殺し合いがいつ起こりえるかわからない時代でもあったです。
なので、十七条憲法で「和を大切にしなさい」と度々書かれています。
冠位十二階は役人の位を色分けしたと言われています。
パッと見て地位がわかるという、便利ですよね。
冠位十二階は身分だけではなく、才能がある人を見いだし登用して役人の心構えをはっきりと示すためのものだったとされています。
ちなみに遣隋使として有名な小野妹子は冠位十二階が定められ聖徳太子に見いだされた人であったようです。
小野妹子は当時身分が低く、冠位十二階で見いだされなければ政治の世界にはその身分では到底出られなかったといわれています。
三経義疏(サンギョウギショ)を作成した聖徳太子
聖徳太子は三経義疏(サンギョウギショ)を作成したとも言われています。
義疏(ギショ)とは、今でいう注釈書みたいな感じです。
それを三巻も注釈を著しておられるのです。
中身は勝蔓経(ショウマンギョウ)・維摩経(ユイマギョウ)・法華経(ホケキョウ)の三巻です。
仏の教えが中国を介して日本に入ってきた直後から、太子はお経の解釈をされ講義をなさっているというお話しも残っています。
入ってきたばかりでほとんどの方がその意味すら解釈できない頃に、太子はもう講義をされている…。
どこからお経の解釈をする能力が備わっていたのかと思うと、本当に不思議な方であったとしか言い様がありません。
でも、こんな謎なエピソードが数々あるので、後から作られた架空の人物ではと疑われてもいます。
聖徳太子のお名前の由来は?
聖徳太子の名前は、聖徳太子が死後にその功績の大きさから送られた尊号あるいは諡(おくりな:人に死後に贈る称号)であるとされます。
つまり聖徳太子は没後100年後のお名前とされています。
聖徳太子にはお名前にはいろいろあります。
子供時代には厩戸皇子(ウマヤドノミコ)。
大人になられてからは
- 厩戸王(ウマヤトノオオキミ)
- 上宮太子(ジョウグウタイシ)
- 厩戸豊聡耳皇子(ウマヤドノトヨサトミミノミコ)
など呼ばれています。
ちなみに厩戸豊聡耳皇子(ウマヤドノトヨサトミミノミコ)は、ある時に十人の方のお話を一度に聞いたということから、その後にこの名前で呼ばれたそうです。
聖徳太子の10人の話をちゃんと聞き分けたという有名なエピソードですよね。
また、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)・厩戸王(ウマヤトノオオキミ)というのは、馬小屋の前でお生まれになったという説からきているそうです。
あるいは蘇我馬子の家で生まれたという説もあります。
聖徳太子にはこんな謎のエピソードも数々ある!
キリスト教のつながりを論じる方もいる
キリストが処女マリアから生まれたところも厩(ウマヤ:馬小屋のこと)の中と言うことでどこかキリストとつながってないかと思ってしまう人もいるかもしれません。
キリスト教が日本に伝わったのが、戦国時代とされてます。
ところが日本書紀の中には太子が厩(ウマヤ)でお生まれになられたことが記載されていて、日本書紀の書かれた頃にはキリスト誕生の秘話が伝わっていたとする学者がおられるようです。
はるか昔にどのようにしてこんなにも似過ぎた逸話が言い伝えられたのか、不思議な話です。
情報網も少なかったし、交通網も今と比べものにならない時代にですからね。
もちろん、たまたま似た話になっただけとも言われています。
また、久世観世音菩薩が僧に姿を変え、聖徳太子の母親の前に現れたという逸話もあります。
その僧の姿は黄金色に輝いていたとか。
そして、その僧は「人々を救済したい救世の願いがあるのだ。暫時そなたのお腹に宿らせてくれ。」と告げて母親の口から体内へ入っていったとか。
こういうエピソードもキリスト教と類似点がありますよね。
聖徳太子の愛犬雪丸の秘話
聖徳太子には愛犬がいたそうです。
愛犬の名は雪丸と言います。
雪丸は人と話し、お経を読むことが出来たそうです!
聖徳太子は飼い犬まですごいですね。
奈良県王寺町の公式マスコットキャラクターとなっているのが、雪丸というわんちゃんなんですが、聖徳太子の愛犬であったのですね。
ちなみに現在雪丸が眠っているのは、奈良県王寺町の達磨寺です。
これにもいわれがあります。
聖徳太子に雪丸が遺言で、「達磨寺の達磨大師が葬られている墓所の北東に葬ってくれ」と頼んだと言われています。
それを聞いた聖徳太子は雪丸を言われたとおり、達磨寺の達磨大師がお眠りになっている北東部に埋められ供養されたとのことです。
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聖徳太子と達磨大師の秘話もある!
聖徳太子はインドの達磨大師に会っていたという話もあります。
奈良県王寺町の片岡山というところに伝わっております。
聖徳太子が王寺町の片岡山を通りかかったときに、一人の異人に出会います。
太子が話しかけられますが、ほとんどお話しも出来ないくらいに衰弱していたとか。
太子は哀れに思い、自分の着ていたものをその異人に着せかけてやり、食事までお与えになられたようです。
しかし手当もむなしく、その異人はこの世を去ってしまいます。
太子はその異人の亡骸を丁寧にお墓の中に埋葬してあげるのです。
そして後日お墓にいきますと、遺体がなくなり棺桶の上には太子が与えた衣服が丁寧に畳んで置いてあったとか。
太子はその衣服をそっと手に取り、また自分の身にまとわれたとか。
遺体がなくなり、衣服が残されると言うことの不思議さに太子はその異人が達磨大師の化身であると信じて、寺を建てて達磨大師の像をそこにお祀り(おまつり)になられたそうです。
聖徳太子は自殺・他殺・病気?
聖徳太子の死に方も諸説があり、どれが真実なのかわからないようです。
お生まれになったのが厩(ウマヤ:馬小屋)であるという伝承は語り継がれているのですが、死に方には諸説あります。
病気だとか自殺説・他殺説などなど、やはり謎の人物なんでしょうね。
一番有力なのが、病(天然痘が流行ったこともあるが死因は不明)により心不全を起こし死亡された説。
最近では死没されたのが妻と一日違いであり、誰かに殺されてしまったという説まであります。
聖徳太子が亡くなられた後、農民たちは嘆き悲しみ農作業にも手がつかずに、これから先どうしたらよいのだという声にあふれてたとされています。
最後に
聖徳太子はどんな人であったか、様々なエピソードを紹介しました。
いろんなエピソードを紹介すればするほど、ますます謎が謎を呼ぶのが聖徳太子です。
十人の声を一度に聴くとか超人的なお話も伝わっておりますし、調べていけば行くほどに、伝説の中に埋もれてしまいます。
エピソードが伝説的すぎるというか…
その正体は一体何者だったの?と首を傾けざるを得ないというのが本当のところです。
ただ、だからこそ歴史のロマンを感じて、興味を持って様々なエピソードを見ていくととても興味深い人物であることがわかります。
今回の記事が聖徳太子について少しでも知る手助けになれば幸いです。
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