軍師・竹中半兵衛と共に『両兵衛(または二兵衛)』と知られる豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛。
大河ドラマでも取り上げられ一躍有名となった人物です。
そんな黒田官兵衛は有名ですが、どんな人物かいうと詳しくはわからないって人も多いのではないでしょうか。
そこで黒田官兵衛はどんな人だったのか、エピソードや性格を紹介していきます。
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目次
黒田官兵衛ってどんな人だったの?
黒田官兵衛は優れた知能と戦術の持ち主
1546年12月22日姫路城主・黒田職隆の嫡男として生まれます。
一般的に黒田官兵衛という名で知られていますが、実名は“黒田孝高(よしたか)”と言います。
そして、剃髪(ていはつ)後は“黒田如水(じょすい)”という名で知られています。
またキリシタン大名でもあったとか。
官兵衛は初め、播磨平野(現在の兵庫県西部)を治めていた小寺政職に仕えていました。
赤松政秀が3000の兵を率いて攻め込んで来た際には300の兵で奇襲攻撃を仕掛けるなどをして、三木通秋の援軍もあり見事撃退に成功。
毛利氏や宇喜多氏と交戦した際も少ない兵で退けたりと優れた知能と戦術の持ち主だったようです。
織田家に主君とともに仕えるが…
小寺氏が毛利氏と織田氏にはさまれると先を見越して織田に仕えるように小寺政職に進言し、小寺氏は織田氏に仕えることになります。
けれど、1578年に織田信長の重臣だった荒木村重が謀反を起こすと主君の小寺政職も村重に続こうとします。
そのため、官兵衛は村重を説得しようと村重の元へ赴きましたがそのまま幽閉されてしまいました。
幽閉にはいろんな思惑があったとの説も
実はこの幽閉に関して、主君である小寺政職が荒木村重に官兵衛暗殺を依頼した、という話があります。
この頃には官兵衛は信長にもそして秀吉にも頼りにされている存在だったようなので、主君を差し置いて重宝される官兵衛がうとましく、嫉妬なようなものもあったのかもしれません。
しかし荒木村重は殺害することは無く幽閉という方法をとります。
このことに関しても官兵衛とは旧知の仲だったから殺さなかった、という話もあるようです。
幽閉から救出されるが…
なかなか戻ってこない官兵衛に信長は、『裏切った』と激怒。
信長の人質となっていた官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)を処刑しようとするも竹中半兵衛が決死の覚悟で官兵衛を信じて松寿丸をかばいます。
それから1年後に官兵衛は黒田家の忠実な家臣である栗山善助や母里太兵衛らに救出されました。
『土牢』という身動きができない狭い牢屋に閉じ込められていたせいで、痩せ細り髭も伸び放題。
皮膚病も患っており足腰立たない状態で背負われて救出されたそうです。
頭部には醜い痕が、左足関節にも障害が残ってしまい歩行などがやや不自由な体となってしまいました。
黒田官兵衛は戦では容赦なかった
その後の中国地方への攻めにおいては、策略を用いて兵糧の補給路を断ち、住民を襲撃してそのの多くを鳥取城へ避難させた上で兵糧攻めを行い、飢餓させ降伏させます。
この作戦は『鳥取の渇え殺し』と呼ばれるほど悲惨なもので、同じように兵糧攻めをした三木城(『三木の干し殺し』と呼ばれるほどこちらも悲惨なものだったようです)よりも徹底。
食糧を全て買い占め、住民を鳥取城へ集めることで兵糧を瞬く間に枯渇させ、飢えに苦しんだ人達を最終的に言葉にできないほど凄惨(せいさん)極まりない状況に追い込みました。
続く備中高松城攻めにおいても策を立案し水攻めを成功させています(歴史ファンには有名な『高松城水攻め』です)。
官兵衛は戦においては容赦のない恐ろしい人間だった、ということなのかもしれません・・・。
1585年には高山右近や蒲生氏郷らの勧めによりキリスト教に入信して『シメオン』という洗礼名を貰います。
その後の1589年には家督を嫡男・黒田長政に譲りますが引き続き秀吉の側近として仕えていました。
関ヶ原の戦いでは
秀吉の死後に起こった『関ヶ原の戦い』においては、家康側の東軍に息子の長政を送り出し、官兵衛は主力部隊以外の残った家臣と新たに集めた兵力を巧みに動かして北部九州に転戦。
(徳川側についたのは西軍の石田三成とはあまり仲良くなかったからと言われています。)
西軍に属した大名・大友義統に勝利するなど晩年においてもその手腕を存分に発揮します。
東軍勝利後、長政は筑前国名島(現在の福岡県)52万石が与えられ、官兵衛にも勲功恩賞や上方や東国での領地増加を提示されますがそれを辞退。
政治に関与することなく隠居生活を送り、1604年4月19日に59歳でこの世を去りました。
黒田官兵衛の性格がわかるエピソードは?
幽閉後にはこんなエピソードも
幽閉された有岡城からの救出後のこと。
嫡男の長政は殺されたと聞いていた官兵衛は栗山善助に「松寿丸(長政)の墓に参りたい」ともらします。
それに対し善助が長政が生きていることを伝えると安堵(あんど)し、かばってくれた竹中半兵衛に会ってお礼が言いたいと思いますが、半兵衛は官兵衛が幽閉中に病死しており、それを聞くと「礼を述べていないのに、惜しい人を亡くしてしまった」となげいたそうです。
秀吉からも一目を置かれるが…
秀吉がある時家臣に、『自分の死後、天下を取るのは誰か』と問いかけた際の事。
徳川や前田などといった有力な大名の名が挙げられましたが秀吉は笑いながら「おそらく、官兵衛だ」と言ったそうです。
本能寺の変で信長が討たれた際、官兵衛は秀吉に「天下を獲る好機が来た」と進言。
その後あまりにも上手く天下人となれたために秀吉に恐れられるようになったとも言われています。
大きな領土を与えればそれだけ脅威になると警戒されるほど優秀な武将であった為に、九州平定等の大きな功労の後も、秀吉からは豊前6郡(現在の福岡県東部と大分県北部辺り)12万3000石のみ与えられるだけでした。
加藤清正や福島正則らは約19~24万石与えられているのですから、秀吉に対して怒っても当然のことだと思います。
官兵衛の方が年上ですしね。
でも、官兵衛は秀吉の警戒心を悟りこの冷遇を甘んじて受け止めていたそうです。
黒田官兵衛は和歌も好んだ
元々和歌等を好んでおり、この道を究めたいと思っていたようですが、近隣の僧に「今は乱世だから和歌等よりも弓や馬を究めるべき」といましめられて考え直します。
けれど後年には再開して、“細川幽斎”や“最上義光”らとともに当時の武将達の中でトップクラスの和歌の実力を誇る名手といわれていたそうです。
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黒田官兵衛は癇癪(かんしゃく)を起こすけど…
晩年は些細なことでよく癇癪(かんしゃく)を起こし家臣を困らせていました。
けれど、癇癪をおこすことで自分が死んだ後、家臣はほっとして息子の長政に忠誠を尽くすだろうと考えてのことだったとか。
また遺言でも、優秀な家臣を長政に残すために殉死を禁じるなど、死ぬ間際まで黒田家の為を思って策を講じていたようです。
癇癪はおこしますが、家臣に対し諭すように言う人物だったようです。
どうしてもという時は猛烈に叱りつけましたが、家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり死罰を命じたりはしませんでした。
隠居してからは隠居屋敷に身分の低い子供達を入れて存分に遊ばせ、廊下で走ったり相撲をしたりしてふすまや障子を破いたりしても決して怒ったり叱ったりしなかったそうです。
この事については、明治の頃に生まれた小説家・海音寺潮五郎が『信長・秀吉・家康の三英傑より人物的に勝っている』と評したとか。
側室はこの時代には珍しく
また、側室持って当然だったこの時代の中では珍しい一夫一妻の武将で、妻は正妻・光(てる)だけでした。
長政が生まれて次男が生まれるまで何年か時間が空いたにも関わらず、その間も側室を持つことは無かったそうです。
最後に
黒田官兵衛がどんな人だったか解説しました。
黒田官兵衛は戦では時に冷酷で残酷なほど手を抜かない策を講じる一方で、家臣や子供そして家族を大事にする人物だからこそ家臣たちに慕われていたのではないかと思います。
加えて頭が良い。
上司にしたい武将ランキングがあれば間違いなく上位に入る人物なのではないでしょうか。
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