お盆の時期に迎え火や送り火をする習慣があります。
でも、この迎え火や送り火の意味ってよくわからないって人も多くいます。
また、やり方などもよくわかってなかったり…。
そこで、迎え火と送り火の意味とやり方について解説していきます。
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目次
迎え火と送り火の意味は?なぜするの?
迎え火と送り火の意味は?
お盆にご先祖様をお迎えするのが迎え火。
そして、ご先祖様を送らせてもらうのが、送り火です。
迎え火はご先祖様がお家にお帰りになるときの目印になり、送り火は「しっかり見送っているよ」とご先祖様に伝えていることになります。
迎え火や送り火はいつするの?
迎え火は、お盆入りの7月または8月13日の夕方です(12日にお迎えするところもあります)。
送り火は7月または8月16日の夕方におこないます(これも前日の15日にする場合もあり)。
迎え火をする日のことを迎え日、送り火をする日のことを送り日と言います。
地域の風習によって日にちが異なることもあるので、その地域の風習に従ってくださいね。
もしわからなければ、上記の日程でいいかと思います。
浄土真宗では、迎え火・送り火はしない。
ちなみに浄土真宗では迎え火も送り火もしないようです。
なので、ご家庭が浄土真宗だった場合は、特に迎え火と送り火をしなくていいです。
宗派の考え方ですが、お盆だから帰ってくるのではなく、1年間いつでもいてくださって見守ってくれていて、毎日が帰ってきている状態という考えから、迎え火や送り火はしないようです。
迎え火と送り火のやり方は?どうするの?
迎え火と送り火のやり方は?
一戸建てや昔の農村などでは、玄関の門口で苧殻(オガラ)を素焼きのお皿の上で燃やしてご先祖様をお迎えしあるいは送り出します。
この苧殻(オガラ)を玄関で焚くのでその火のことを迎え火・送り火としています。
素焼きのお皿のことを焙烙(ホウロク)といいます。
焙烙(ホウロク)はごま、塩、お茶などを煎るための道具で、地方ではイリゴラ、イリガラというところもあります。
焙烙(ホウロク)はお盆前あたりに、仏壇屋さんなどで売っています。
迎え火と送り火はお墓でやる場合もある
地域によっては迎え火と送り火は、お墓に行ってやる場合もあります。
その場合はお墓参りを済ませてから提灯に火を灯して、家まで持って帰るというものです。
送るときはその逆でお墓まで提灯を持っていき、そこで火を消すという逆のやり方になります。
迎え火や送り火に使う苧殻(オガラ)って何?なぜ使うの?
迎え火や送り火に使う苧殻(オガラ)は、漢字から想像すると、オイモさんの殻?と思ってしまいます(笑)
でも苧殻(おがら)は麻の芯です。
麻の皮を剥ぎますと芯だけが残ります。
この部分を苧殻(オガラ)といいます。
なぜ、そんなものをわざわざ焚く(たく)のと思われますよね。
麻は清浄な草木の一種とされ、悪霊などを寄せ付けないものと信じられました。
ご先祖様をせっかくお迎えするのに悪霊が一緒に入ってきては困るので、苧殻(オガラ)を焚くのだと伝えられているのです。
迎え火や送り火はこんな風習がある地方も
ちなみに関西ではあまり見ないのですが、燃やした苧殻(オガラ)を関東などの都市部では3回またぐという風習があるそうです。
そのいわれは病気から体をまもることができるという風に伝えられているのです。
苧殻(オガラ)が清浄な植物としてあつかわれたから起こった話かもしれないですね。
苧殻(オガラ)は花屋さんやスーパーマーケットに、お盆前に行けば必ず売っているかと思います。
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迎え火や送り火はマンションではどうなの?
一軒家ではなくマンションの方もいるとは思います。
マンション住まいの場合は、迎え火や送り火はっきり言って難しいですよね。
べランドなどでおこなうのも、問題がありそうです。
なので、どうしても火が焚けない場合は、火をつけずに形だけでおこなっても良いでしょう。
やり方として、13日の朝あたり、家族がいつも揃う場所で集まります。
小さな棚を作り、お供え物をします。
これはご先祖様がお帰りになる準備です。
時間が午後5時~7時の間で、小さな焙烙(ホウロク)をおいて、小さく切った苧殻(オガラ)を燃やすふりをするという感じです。
もう一つは、盆提灯を使って玄関に吊しておくという方法です。
これならば火を焚くということがありませんので安心ですよね。
盆に使う吊り提灯もおなじ意味合いがあるので、迎え火として玄関などに吊っておくということも迎え火や送り火と同じ意味を持ちます。
最後に
迎え火と送り火のやり方と意味について解説しました。
会ってもない先祖のことなんて懐かしくも何でもないと思われる人もおられるかもしれません。
でも遺伝子を探ると、七万年ほど前にアフリカで生まれた人類が氷河期を通じて世界に派生していたようです。
そこから、今、私という人間は生きているわけであるのです。
壮大なロマンではないでしょうか。
ご先祖様と思えば懐かしさはないのかもしれませんが、私が今ここに生まれているという事実はそのご先祖様がおられなければ、私という存在がないことになります。
お盆といっても、ご先祖様のことを何ともないと思われるなら、こんなことも考えてみるとロマンを感じられますよ。
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