六文銭の家紋に、槍を持つ雄々しい姿。
ゲームなどで描かれている真田幸村はそのようなイメージだと思います。
大河ドラマにも取り上げられ、ますます人気が上がっている武将なのではないでしょうか。
そんな真田幸村についてどんな人だったのかエピソードをこれからお話していきたいと思います。
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目次
真田幸村ってかっこいい!どんな人だったの?
1567年、信濃国(現在の長野県)の武将・真田昌幸の次男として生まれます。
今では一般的となった『幸村』という名前は、実は後世の軍記物に記された名前で、本来は『信繁』という名が正しいそうです。
真田家の歴史は様々な武将を家臣になる歴史
真田家の歴史は、戦国時代を生き抜くために様々な武将の家臣になる歴史とも言えます。
また、そのため幸村は、様々な武将の人質になる歴史でした。
真田氏はもともと武田氏の家臣でした。
けれど、武田が滅亡すると織田に降伏して家臣となります。
その後織田信長が本能寺で討たれると、真田がいた信濃や上野(現在の群馬県の辺り)は徳川・北条・上杉の三大勢力の争奪戦が起こります。
父・昌幸はこの三勢力の間を巧みに立ち回り、真田の勢力を維持することに努めました。
数万の大軍相手にたった3千人の規模で戦い続けるのは困難。
真田氏は上杉氏に従属して保護を得ます。
その際に幸村は人質として上杉の領国である越後(現在の新潟県)へ送られました。
この時幸村は19歳だったそうです。
豊臣秀吉が天下を制すると、父の昌幸はいち早く秀吉と繋がりを持ち、豊臣の家臣となります。
幸村は人質として今度は越後から大阪へと送られました。
この頃に幸村は豊臣の家臣であった大谷吉継の娘・竹林院(安岐または利世ともいう)を正妻に迎えます。
兄の信之は家康の家臣・本多忠勝の娘(家康の養女)である小松姫と結婚しており、ここで立場が別れることになったのですね。
関ヶ原の戦いでは、石田三成側に
幸村32歳の時、秀吉が亡くなります。
その後関ヶ原の戦いが起こり、父の昌幸と幸村は西軍。
元々石田三成とは血縁関係にあり、昌幸と三成は親しい間柄だったようです。
しかし、兄の信之は妻が家康側の本多忠勝の娘ということもあり東軍へ(これについてはどちらが勝ってもいいようにこのように別れた、という説もあります)。
関ケ原で敗れ幸村は幽閉される
結果は東軍が勝利。
幸村も首をはねられそうになりますが、兄の信之の頼み込みのおかげで、幸村一家は九度山(くどやま)へ幽閉で許されます。
生活はとても貧しく厳しいものでしたが、地元の人達の支援もあり何とか生活していたようです。
この際に正妻である竹林院が有名な『真田紐』を考案し、家臣に行商させて生計を支えていたとか。
父・昌幸はこの幽閉中に病死してしまいます。
幸村は大阪の陣に参戦
そして幸村は1614年・大阪の陣へ参加します。
豊臣家が戦に備えて武将を集めていることは、九度山(現在の和歌山にある山)で幽閉中の幸村にも届き、九度山を脱出して参加します。
1615年の大阪夏の陣にて戦死(後で詳しく解説します)。
享年49歳でした。
幸村の息子たちは?
その後、真田幸村の長男・幸昌は秀頼に殉じ切腹。
次男・守信は大阪城から脱出して奥州伊達氏の重臣、片倉重長に保護されます。
しばらくは片倉姓を名乗っていましたが守信の子供の代には真田姓を名乗り、仙台真田氏として続いています。
娘も同時期に保護され、片倉重長の妻になっているそうです。
意外なところで伊達と真田の繋がりがあったのですね。
ちなみに関ケ原で家康側についた兄・信之の家系も信濃で10万石の大名として明治まで続いたみたいですよ。
真田幸村の性格やエピソードは?
真田幸村の性格は?
兄の信之いわく、幸村の性格は優しく物静か。
腹を立てることも少なかった、とか。
人質として人生のほとんどを送っていたので当然の事かもしれません。
けれど、幸村は気に入られていたようで、人質としての待遇はよかったようです。
人質として行っていた上杉家では家臣なみの待遇をうけたとか。
大阪の陣で家康が安心するけど実際は…
父や兄が優秀すぎて目立たない存在であったために、徳川家康も大阪の陣の際真田家が豊臣についたと聞いたとき、それが幸村だとわかると、安心したそうです。
しかし幸村はあの有名な『真田丸』という要塞のようなものを大阪城の中で手薄だった南側に作るります。
総攻撃を受けながらも駆け引きと戦略で相手をぎりぎりまで引き付けると、一斉攻撃して家康側を総崩れにさせます。
家康は一筋縄ではいかないと悟ると一度和睦(わぼく)しました。
けれど家康のほうが一枚上手で、真田丸を合意の上で破壊させてからもう一度戦を仕掛けたのでした。・・・なんだかずるいですね。
2回目の大阪の陣(夏の陣)では
戦況は圧倒的に不利な状況で幸村は正面突破を決行します。
家来たちが「我こそは真田幸村なり!」と自分が幸村であると思わせるために大声で叫びながら何度も突撃。
倒しても倒しても現れるためにその場は混乱。
さらに敵の一人が裏切ってこちら側に寝返ったと噂を流して、さらに敵を混乱させます。
それを利用して幸村は家康の本陣に突撃。
家康の身辺を守っていた旗本隊を恐怖におとしいれれました。
武田信玄に三方ヶ原で敗れて以来一度も倒されなかった家康の馬印(武将が己の所在を記すために付けた印)が倒され、家康は慌てて馬に乗って逃亡。
家康が自害を覚悟するほど追いつめられたようです。
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日本一の兵(つわもの)と言われる
結局家康の首は取れず、幸村は近くの寺で傷ついた体を休めていたところを敵に見つかり、「我が首を手柄にせよ」と言って首を差し出したそうです。
こういったことから『日本一の兵(つわもの)』と称されるようになりました。
兄である信之も『幸村こそが真の侍だ』と言っていたとか。
ようやく幸村の能力が発揮された、ということですね。
あの家康を自ら追い詰めるなんて・・・。
やっぱり真田幸村という武将はかっこいいです!!
真田家の家紋に使う『六文銭』は?
真田氏が家紋に使う『六文銭』は、三途の川の渡し賃が六文であると信じられていて、“死ぬ覚悟で戦に臨む”という意味で使っていたと言われています。
他にも北条の軍に襲われていた時に、北条家の重臣が使っていた六文銭の紋にすることで敵を混乱させ難を逃れたことから使われるようになったという説もあるようです。
しかも幼い幸村が父・昌幸に「永楽通宝(六文銭)を書いて掲げよう」と進言したとか・・・。
真田十勇士は?
幸村と言えば『真田十勇士』ですが、これはまったくの作り話です。
実在した人物をモデルにしたりしていたようですが、架空の人物だそうですよ。
『真田十勇士』という言葉を用いたのは明治・大正の時。
以後のヒーローとしてのイメージが定着したのもこの頃のようです。
最後に
真田幸村がどんな人かエピソードを紹介しました。
真田幸村はずっと人質として過ごしてきて、あの大阪の陣まで歴史の表舞台にたつことはなかったようです。
しかも強いイメージがついたのは最後の大阪の陣の時。
その戦だけであれだけの能力を発揮できる人物というのは、そうそういないのではないでしょうか。
表舞台で活躍したのが大阪の陣だけですが、その大阪の陣だけでインパクトを残すとは幸村のすごさを感じますね。
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