“福島正則”という武将の名を一度は聞いたことはあるかもしれません。
多くの人は時代小説などで耳にしたことはありますが、実際のところ、どんな武将だったのか詳しいことはあまり知らない人が多いです。
そこで、福島正則はどんな人だったのか逸話などを紹介していきます。
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目次
福島正則ってどんな人?性格は?
福島正則は秀吉の従妹
福島正則は1561年 尾張国(現在の愛知県の辺り)で生まれます。
桶屋の息子でしたが、母親が豊臣秀吉の叔母であったため、秀吉とは従兄弟という間柄もあり当時まだ家臣が少なかった秀吉に父・福島正信とともに仕えることとなりました。
福島正則の性格は?
性格は裏表なく、意志が強く決断力もあったとか。
不正を働く者や命令に背く者には残酷な刑を課すこともあったようです。
そして、短気でもあったようで気に障ることがあれば家臣を成敗しようと刀を抜いたりもしたとか。
戦では手柄を立てる
そんな正則ですが、戦ではきちんと手柄を立てています。
1582年の『山崎の戦い』では、勝龍寺を攻撃するなどして軍功をあげて、300石を追加加増してもらっています。
翌年の『賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い』においては加藤清正たちと並んで功績を上げ、“賤ヶ岳の七本槍”と呼ばれるようになりました。
政治的手腕は…
けれど、政治的手腕はあまりなかったようです。
政治的な面で『関ヶ原の戦い』で徳川に付くということは豊臣に代わって徳川が政権を握ることを認めるということだったのですが、正則は西軍である石田三成と仲が悪かったために徳川に付いただけ、だったようです。
関ヶ原の戦いの前に“石田三成襲撃事件”も起こしているので、よっぽど三成とは険悪だったみたいですね・・・。
商業については熱心だった
政治的手腕が無かったと言われている正則ですが、商業については熱心だったようです。
公正な検地や国土・国産の開発、商業・貿易の復興に熱心で、広島城下にキリスト教会を建てることで、自国の港にスペイン・ポルトガルの商船を入港させ、貿易を盛んにしようとしていたようです。
関ヶ原の戦い後は…
関ヶ原の戦いの後、福島正則は広島藩49万石の大名になります。
けれど、勝手に城を修復してしまい、それが武家諸法度に違反(城の修復は必ず幕府の許可を得てからという決まりがあった)するとして、高井野藩(長野県の辺り)4万5千石に改易(大名の領地を没収して身分を下げる罰)。
家督を譲った嫡男も早世(若くして亡くなること)し、4万5千石のうち2万石を幕府に返上することとなります。
もともと正則は修復の申請はしていたのですが、『城は一国一城だけ』という決まりを破り新しい城を築城。
それがばれてしまい作っている城を破壊するように言われていました。
それもあってなかなか許可が下りず、雨漏りしているところだけでも・・・と先に修復を始めてしまったようです。
こうして大名としての福島家は終わりを迎えました。
正則自体もこのようなことになるなんて想像もしていなかったのではないでしょうか。
豊臣側の子飼い武将だったのにコロコロと徳川側に寝返ったりもしていたので、信用できないと徳川幕府側の陰謀でこのような結果になったとも言われています。
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福島正則の逸話はある?
福島正則の有名な逸話をいくつかご紹介します。
病の友達を訪ねる
松田左近という仲の良い飲み友達が病のため、大阪で療養中であると聞いた正則は、一人の共も連れずたった一人で馬を走らせます。
松田左近がそれに感動して家来に、たくさんお酒を用意するよう命じると病み上がりなんだから体に悪い、と友人を気遣ったそうです。
けれど一杯だけご馳走にはなったそうですよ。
家臣がめぐんであげると…
関ヶ原の戦いの後、江戸城に滞在していた時の事。
“ここら辺の酒は美味しくない!!”と言って大阪から江戸に酒を運ばせていました。
ある時酒を積んだ船が暴風に遭い、八丈島(当時は島流しの刑罰として罪人が送られてくる場所だった)に流れ着きます。
そこで、西軍についていた為に改易され八丈島に流されていた宇喜田秀家(備前・美作〈岡山県〉57万石の大名だった)が酒をめぐんでほしいと言ってきました。
その変わり果てた姿にいたたまれない気持ちになった正則の家臣達は酒を分けてあげます。
江戸に着き、そのことを正則に報告すると正則は「正直に報告してくれた」と上機嫌で家臣を褒めたのでした。
福島正則のカッコ悪すぎる逸話
黒田家の家臣・母里太兵衛(もり たへえ)が使者としてやってきたとき、正則は酒宴を開いていて酔っ払っていました。
正則は太兵衛に酒を勧めます。
けれど上司である黒田長政に禁酒を言い渡されていた太兵衛は断りました。
正則は「大きな杯に入った酒が全部飲めたら好きなものをあげる」と言ってさらに勧めます。
それでも断られると「一杯の酒も飲めないとは、黒田家の武士はヘタレだ」と挑発。
これに怒った太兵衛は大きな杯の酒を一杯ではなく三杯も飲み干しました。
太兵衛は正則に「日本号が欲しい」と言います。
『日本号』は天下三名槍の一つであり、元々天皇が所有していたもので、天皇から織田信長へ、信長から豊臣秀吉、そして秀吉から正則へと譲られた貴重な槍。
正則は断るも、元々自分が“好きなものをあげる”と言ったのですから泣く泣く手放しました。
これが後に『酒は飲め飲め飲むならば、日本一の此の槍を、飲み取るほどに』という有名な“黒田節”の一節になったそうです。
最後に
福島正紀はどんな人だったか逸話などを紹介しました。
関ヶ原の合戦後は、福島正則も波乱万丈な人生を送ったのですね。
もしかしたら合戦後の元豊臣家家臣の中で一番不遇な人生を送った人物なのかも。
時代小説などであまりよく書かれていないことも多いのですが、こんな人生を送ったからというのもあるのかもしれませんね。
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